平和で民主的な国家(2024.8.15)

思考の備忘録として、残します。
僕のいつの日か書いた日記を引っ張り出してきて、その日記について今の僕が感想をつける、という形でなんとなく文章を書こう、という魂胆です。

心ない言葉

よく言われる文句だ。
誰かの心を傷つけるような物言いに対して言われる。しかし、そのようなことに対して「心ない言葉」と言い放ってしまえば、ただこれを批判するに終わり、解決の手立てをついには見つけられずに終わる。

言葉を使用する目的の一つは自己表現にある。つまり、自分の意思を他者へと効率的に伝達するために言葉は用いられる。
人と人とが言葉の意味を同様に理解し共有することで、彼の意思は正確に伝達され得るわけであるから、人間が言葉を持つということは、より広く堅い社会的関係を築くという意味合いで丁重に価値付けされる。逆に言ってみれば、他者に伝えるという目的があるのでなければ、意味の共有された言葉というのはその必要性を持ち得ないと認識される。

つまり、「言葉を発する」というのは、とりもなおさず、「心ありきの行為」であるべきだと言える。人は心があるからこそそれを他者と共有する性向に駆られるのであり、すなわち「心の”ない”言葉」などということはないのである。

人は心があるからこそ、
人を傷つけずにはいられない。

そうであるならば、「心ない言葉」に対して言うべきは、「心を持て」ということではなく、「人の心と自分の心の差異を考慮しろ」ということであるはずである。

人を傷つける言葉を放つ人がいるとして、その人が人を傷つけるのは、その人に「心がない」からではなく、「人を傷つけ得る心がある」からである。これをただ単純に「心がない」と言って、彼に正しい心を貼り付けて満足するようなことがあれば(そんなに簡単に人に心を貼り付けられるとしてだが)これはどこまでも画一的な教育の在り方であると言わざるを得ない。

人を傷つける物言いが非難される所以は、「心がないこと」ではなく、「自分の心と人の心との調和の仕方を知らないこと」である。そうであるならば、自分の心をそのままひけらかすことをせず、人に対する優しさとリスペクトとを持って言葉を選びとることが、彼にとって必要になるスキルであり、その指導がこそ差し迫って求められる教育であると言えるだろう。

僕の日記(2022.4.6)

なんとなく僕には、本当に残忍な人の心というのを認めない節がある気がする。
僕自身そんなにできた人間でも無いのに、
きっと人には清らな精神が一番根っこにあって、その美しさを信じることで、人や社会が少しづつ良くなっていくと信じているような気がする。


「人の心」と「主権者教育」

この日記を書いていたときには全然意識していなかったと思うのだけれど、この「心ありき」って感覚は僕の思想の土台に固く根をはってあるような気がする。
何についても、こうした意識で物事を考えるように組み込まれているみたいに。

政治的中立な教育を目指して

教育において究極的に目指されるべきは、平和で民主的な国家の実現である。
子どもたちの豊かな成長とは、真の民主主義実現という目的を健全に果たすための目標であり、これが目的化している以上は、国家はにっちもさっちも進歩しない。

民主主義のために必要なことは、人が個としての尊厳を自覚することである。社会から自分が個として認められている自覚と同じだけ、社会の中に今生きている自分という存在を自分自身が自覚できてなければ、民主主義には程遠い。

個としての自覚とは、個としての責任ある行為に基づく。
ただ生きているのみの民が大勢いるのでは、民主主義が生きているとは言えない。
個々が各々自分の思想と立場を持って、或いは特技と専門性を持って共同体や社会に作用していく確かな行動力が民主主義を前提する。

今日の学校教育は、その民主主義を片付けて仕舞おうとする思惑に駆られているとしか思えないのである。

政治的な見解も、宗教的な立場も、個人の意見でさえも、それが「政治的中立性を守るために」押さえ込まれている。

健全な民主主義を考えれば、全くもって善人の思惑でないことは間違いないのであるが、これがまかり通っているのが、我が日本という国である。

政治的中立を守るとは、誰も何も発言しないことではない。
政治的中立を守るとは、誰しもが発言できることであるのだ。

全ての人が個を表明し、かつ誰しもがそれによって不利益被らない社会が民主主義に近いそれであり、その土台が国民総意の意思形成を実現させる。

教師がなにも言わず、何も教えず、故に教師自身がなにも考えなくなる学校の中で、
子どもたちはどのように社会や政治や宗教や戦争に関心を持ち、自身の想いを育てていけるのだろうか。

「差別を受けることになるかもしれないから、自分の立場を明かさないでくれ」
などと言うのは、
この社会が真っ黒な差別を受容していると公言しているようなものだ。

なんとくだらないことだろう。

少しづつでも、人の意識から変えていかねばならない。
人は発言こそすべきで、意志を表明するための努力を惜しまず生きるべきであるのだ。

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