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「自分自身になるために生まれた」

コロナ禍で人と会えない時代、人が装う理由とは何か。

資生堂社長の魚谷雅彦氏が投げかけている問いだ。


この問いを目にして、一瞬時が巻き戻されたような錯覚を覚えた。4年前、ちょうど秋口の今頃、同じようなテーマについて考えていたことがあった。もちろんコロナ禍でも、人と会えない時代でもなかったが、私は当時「人が装う理由」について、地球の裏側であれこれと考えあぐねていたのだ。

事情はこうだ。

当時、私はパリで大学院生をしていた。パリでは教育学、中でも現在注目を集めるオンライン教育をテーマに研究に勤しみ、充実した日々を送っていた。

ところでパリに暮らしていると、アジア人女性、中でも東アジア人女性というのは圧倒的なマイノリティである。当時、パリの中でも現地の人が多いエリアに住んでいたこともあり、ふだんの生活の中で「自分のような人」(=東アジア人女性)に出会うことがほぼなかった。近所で東アジア人女性とすれ違おうものなら、まるで生き別れた姉妹のようにしばし互いを見つめ合ってしまうこともあった。

そんな圧倒的なマイノリティとして生活する中で、これまであまり意識して来なかった自分のアイデンティティというものと、必然的に向き合わざるを得なくなった。女性であったためか、あからさまな差別を受ける機会はあまりなかったと思う。しかし、パリの中でも最も人口が少ない人種に属していたことで、他者からの圧倒的な不理解というものにしばしば遭遇することとなった。相手としては悪気がない分、その不理解の溝はあまりに深く、差別よりもむしろ救いがたいものに思われた。

そんな生活の中で、私は一つの問いにぶちあたった。これほどまでに、見た目も文化も異なる我々人間を、一つの同じ種たらしめているものは何か?という問いである。私達は、肌の色も、目の色も、髪の色も、すべて一人一人異なっている。また住む場所によって、生活様式も話す言葉もすべてが異なる。しかし生物学的には、言うまでもなくみな同じホモサピエンスである。考えてみれば驚くべきことだ。これほどまでに、見た目も生活様式も多様な私達を、同じ人類として繋ぎ止めるものは一体何なのか?

答えを探すべく、文化人類学系の本に手を出したり、大学で関連する授業を取ってみたりした。自分から文化的に遠い人々がその鍵を握っているような気がして、アマゾンの先住民族や、南米パタゴニアのヤーガン族といった、原始的な暮らしを尊ぶ人々について調べ上げたりもした。しかし新しいことを知れば知るほど、混乱は極まるばかりであった。

そんな中、私はある画期的なオンライン授業に出会った。それは京都大学が主催する無料オンライン講座(MOOCs)であった。「Evolution of the Human Sociality」(人類進化論)と題されたその講座は、同大の山極壽一総長自らが講師を務めたことで当時話題を集めていた。山極総長がこれまでゴリラを対象に行ってきたアフリカ大陸でのフィールドワーク等を題材に、人間と霊長類との比較を通して、「人間を人間たらしめるものは何か」という問いに答えようとするものだった。

今まさしく自分が直面する課題と重なったことから、私は大学院の課題そっちのけでこのテーマにのめり込んだ。「何が人を人たらしめるのか」という問いに対し、あらゆる角度から仮説を立ててみた。そして当時の私が出した仮説の一つが、 まさに 「装う」ということだったのだ。もっと言えば、「化粧をする」ということだ。

我々ホモサピエンスに最も近い種として、チンパンジー、ゴリラ、オランウータンなどの霊長類がいる。彼らと我々は様々な点で似通っている。見た目もそうだが、食物を分け合ったり、群れをなして生活したりといった社会性も共通するところが多い。しかし、ゴリラやチンパンジーが化粧をするなどという話は聞いたことがない。これは、と私は思った。

しかし、そんな私の浅はかな仮説はすぐに打ち砕かれることとなる。調べてみると、広い自然界には、人類と同じく化粧をする種が山ほど存在することがわかった。例えばカニなどは、藻や珊瑚を身にまとって自らをカモフラージュし外敵から身を守ることが知られている。また昆虫や鳥類にも、泥や小石を身体に付着させて自身をカモフラージュしたり、物理的な攻撃から身を守る種が存在する。

しかし、彼らが装う理由と我々人間が装う理由には明白な違いがある。例えば私達が街を歩いていて、突然天敵に身を襲われるということはまずない。そのような事態に備えて化粧をしたり装ったりするという人はいないはずだ。また軍隊に所属でもしていない限り、カモフラージュのために化粧を施す人などもいないだろう。

では我々人間は、一体何のために装うのか。

当初の疑問から逸れてきていることなどお構いなしで、私はこの問いに対し、あくる日もあくる日も考えを巡らせた。

そんなある日、自分が暮らす通りを歩いていると、街角のあざやかなポスターが視界に入ってきた。最寄りのコスメショップの壁に新しく貼られたそのポスターは、フランスの大手化粧品ブランドの広告だった。真っ赤な背景に、深紅のルージュをきりっと引いたモデルが笑顔で映っていた。モデルの胸元には、ひときわ目を引く真っ白な文字で、 "BORN TO BE ME." と添えられていた。フランス語ではなく、英語で。

私自身になるために生まれた ― 。

私はその聞き慣れない言葉を反芻すべく、立ち止まった。「私自身になる」とは一体どういうことか。人は誰しも生まれついたときから自動的に「私」になるのでは無いのか。

不可解な言葉だ、と切り捨てそうになったが、何かがひっかかり私はその場に踏みとどまった。そして、こんな時に役立つ「フランス式眼鏡」を心の引き出しから取り出してみた。その眼鏡をかけた状態で、改めてその言葉と向き合ってみた。すると、それはある意味自然な考え方のように感じられてきた。

パリで暮らしていたとき、周囲の女性たちを見ていて気づいたことが二つある。一つは、みな薄化粧であること。もう一つは、化粧のスタイルを滅多に変えないことだ。それは、彼女らが「いつもの自分を完成させる」という意味合いで化粧をすることと関係している。フランスでは、それぞれの女性が自身の定番メイクスタイルを持っている。薄化粧に赤いルージュだけをすっと引く人もいれば、黒のマスカラだけは欠かさないという人もいる。しかし共通しているのは、それぞれが自身の顔の特徴を活かしたごく自然体のメイクを楽しんでいるということだ。そして一日たりともそのメイクを欠かすことはない。彼女らにとって、それは自分らしさを欠かすことになるからだ。

日本のファッション誌をめくると、メイクの特集ページには「〇〇風メイク」や「モデルの〇〇が愛用の…」といった言葉が踊る。そういった変身願望のようなものは、フランスの女性にはあまり見られない。誰かになるためではなく、あくまで「いつもの自分」になるために彼女らは化粧をする。そして例外なく、その化粧は彼女自身にとても似合っている。フランス人女性が目指す究極の美に、 "bien dans sa peau" という考え方がある。日本語に訳せば、「自分の肌に満足する」とでも言おうか。つまり、ありのままの自分を認め、愛するということだ。この視点からすると、あの "BORN TO BE ME.” という文言にも納得がいく。彼女らにとっては化粧も、ありのままの自分を追究するためのプロセスの一部なのである。

しかしこれは何もフランス女性に限ったことではない、と私は考える。日本人が化粧をしたり装ったりする理由も、結局のところ、自分らしさの追求という意味合いが大きいのではないか。

朝起きた瞬間の自分の姿を最も自分らしいと思う人は、案外少ないのではないかと思う。人はたいてい朝起きると、まず顔を洗い、食事の後は歯を磨く。そして男性の場合は髭を整えたり、女性の場合は櫛で髪をといたりする。その過程を通して、よく見知った居心地のいい「自分」になっていく。自分という存在は、こうした習慣の積み重ねによって形作られていく。それは一朝一夕にして成るものではない。時間も労力もかかるプロセスだ。その途方もなく長いプロセスを生き抜く原動力となるものは、一体何だろうか。

それは、自分自身への希求だと私は考える。他人からの短絡的な評価でも、実態の乏しい期待でもなく、自分という人生最大のパートナーをよりよく理解したいという気持ち。そして、そんな自分を明日へつなげたいという純粋な希望がそこにあるのではないだろうか。

そう考えると、魚谷氏の「会えない時代になぜ装う」という問いには、こう答えることができる。

人は自分であるために装う。

さらに言えば、人は自分「になる」ために装うのだと。

人は自分という存在を希求し、「自分自身になっていく」。それは生涯にわたる自己との対話である。その人らしく整った髪も、丁寧に剃られた髭も、何気ないようで実は厳密に選び取られた口紅も、全てはその人が自分らしさを探求してきた道筋のあらわれである。


そんな風に考えると、今朝も鏡に映る代わり映えのしない自分の姿が、まるでサグラダ・ファミリアのように未だ完成を見ない傑作かのように思えてきて、何だか嬉しくて、ついつい笑ってしまう。


#日経COMEMO #会えない時代になぜ装う

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