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【SS】曇り眼鏡(623文字)

ある日突然、眼鏡が曇るようになった。
マスクを外しても、曇り止めスプレーをしても、眼鏡を変えてみてもだめだった。

コンタクトにしたらどうかって?
とんでもない。
自分の目の玉を触るなんて恐ろしいこと、僕にはできない。

とにかく、僕という人間がかけた眼鏡はすべて曇ってしまうみたいだ。

裸眼の視力は0.01くらいだから、眼鏡なしでは生活できない。
さて困った。

途方に暮れて公園で酒に溺れていると、知らない女性がやってきて言った。

「見かたを、変えてみたら?」

意味がわからずきょとんとしていると、また言った。

「眼鏡のせいじゃ、ないでしょう?」

語尾が震えている。

「ちゃんと、見てよ」

ついには泣き出してしまった。

彼女の涙に洗われたのか、突然、ぼやけていた視界がクリアになった。

思い出した。
この女性は僕の大事なひと。

見える。

娘が交通事故で亡くなったことも。
気力がわかず会社を休職していることも。
アルコールが手放せなくなったことも。
断酒に耐えきれずクリニックを飛び出してきたことも。
目の前で大事なひとが泣いている、ことも。

見たくない現実が、すべて見えるようになってしまった。
また眼鏡が、いや思考がぼやけそうになる。

「帰ってきてよ」

ハッとする。
こんな僕にもまだ、帰る場所があるのか。

酒の瓶をコンクリートの固い地面に投げつけて割った。
ついでに曇り眼鏡も踏みつけて割ってやった。

「もう、なにやってんのよ……おかえり」

0.01の視界の中で、なぜか妻の泣き笑いだけがはっきりと見える。

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