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【SS】もう思い出せない(867文字)

朝。
駅のホームで電車を待っていると、ふいに後ろから懐かしい香りがした。

振り向いたが、とつぜん後ろを見た私に驚いた様子のサラリーマンと、スマホに目を落とす人たちの列が続いているだけだった。

あの香りは、古川先輩の香水だ。
2か月前、急に会社を辞めてしまって以来、先輩とは会っていない。

日々の忙しさに奔走ほんそうしているうちに、彼の存在自体を忘れてしまっていた自分に驚いた。

(あんなに気になってた人だったのに。)

手に持っていたスマホをポケットにしまい、古川先輩のことを思い出す。

(彼は、優しいひとだった。)

残業をしていると、よく私のデスクにやってきて、「どっちがいい?」と聞いてくれた。
その手にはブラックコーヒーと、りんごジュース。

「つっても俺、甘いの無理なんだけど。」と言って、いつも私に甘い方を選ばせた。

(あのときは、恰好つけてコーヒーを選んでしまう私を気遣ってくれてるんだ、とか思ってたな。)

過去の自分の自意識過剰さが可笑おかしく、マスクの下で小さく笑う。

(彼は、とてもいい香りを身にまとっていた。)

あれはどこの香水だったんだろう。
外国っぽい香りだった。
人気の香水ブランドを思い浮かべる。
ディオール、シャネル、ブルガリ、フェラガモ…。

無理だ。
記憶の中の香りを言語化して、デパートの香水売り場で同じものを見つけ出すなんて、不可能に近い。

古川先輩の香りが好きすぎて、「どこのやつですか?」って聞こうかとも思ったけど、もし気味悪がられたら嫌なのでやめておいた。

(聞いておけばよかった。)

古川先輩がなんで会社を辞めたのかは分からない。
とても優秀なひとだったから、もっと待遇の良いところに転職したのかもしれない。

互いの連絡先は知っているけれど、私が連絡をすることも、彼から連絡がくることもきっと無いだろう。

さようなら、と言って会わなくなる別れ方なんて、そっちの方が珍しい。
また会おうね、と言って別れて、そのうち忘れてしまうのだ。

電車がきた。
通勤ラッシュの時間帯の車内は今日も満員だ。

電車に乗り込む。
さきほどの香りは、もう思い出せない。



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