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隠れて生きよ。

隠れて生きよ。

いい言葉だ。エピクロスの快楽主義を体現する言葉として知られているが、実はエピクロス自身の発言ではないらしい。こういう偉人の言葉として知られているが、実は後付けの言葉は意外と多い。だが私は、こんなにエピクロスの思想にぴったりの言葉を紡ぎ出し、さらにその言葉がこんなに長きにわたって知れ渡っている事実に感動してしまう。誰が発した言葉なのかというのを明らかにしたがるのは人間の常だろう。しかし、その人の言葉だって、自分で100%考えて作り出した言葉とは言えない。きっと、人と話したり、自然と対話したりした結果、考案された言葉だ。そのため、何かの偉業をたった一人の人間に還元しようとすることは無意味だと感じてしまう。私は大谷翔平選手のファンだが。

隠れて生きよ。

好きなことを追求し、好きなものを消費する。他人や社会の欲するものを自身の欲するものと誤解せず、我が道をいく。しかしそのスタンスで社会を生きると、気づけば四面楚歌。ならば隠れて生きよ。隠れて、静かに、自身の幸福を追求せよ。この思想は快楽主義と言われる。快楽主義と聞くと、自身の快楽追求ばかりに専念し、社会を顧みない自己中心的な人間像を思い起こすかもしれない。あるいは、自己の快楽に流される弱い個人像が思い浮かぶかもしれない。しかし私は、エピクロスの快楽主義は、むしろ強い個人だと私は思う。社会の波に流されず、社会の承認を求めず、隠れて、自己と向き合う個人。平穏な生活というよりは、自己との問答の日々で、苦渋の生活だろう。誰しも、隠れて生きたいと考えたことはあるのではないか。私はある。しかし、ジブリ映画『耳をすませば』にもある通り、人と違う生き方はそれなりに苦しいのだ。覚悟を決めねばならない。強くなければやってられない。

隠れて生きる。

そこに恋人はいるのか。一人で隠れて生きるのか。究極の自己探究であれば、たった一人で生きるだろう。鴨長明の『方丈記』が思い起こされる。あの場合、隠れて生きるうえに、ノマド的な生活をしている。自己探究かつ自然探究である点が興味深い。ああ。一人で隠れて生きることはかなり孤独な所業だと思っていたが、自然と対話していれば一人ではないのか。むしろ、世界の神秘を探る、壮大な冒険なのかもしれない。しかし、相手は自然でも動物でもなく、そこに愛する人がいてほしいと感じるのは私だけだろうか。私は愛する人とであれば、二人で隠れて生きることができると感じる。今は相手はいないけれど。

隠れて生きて。

あなたはうちの家の恥だから。もう家に帰ってこないで。この街にはあなたの居場所はないわ。こんな小さな街だもの。あなたが帰ってきたら、隣の家から街全体に一瞬で広まってしまう。わかった。もう帰ってこないよ。家の扉を閉める。もう振り返らない。ここはもう私の帰る場所ではない。さあ、これから新しく帰る場所を見つけていこう。帰る場所を作るには、その場所と、待っている人が必要だ。いや、場所はいらないのかもしれない。故郷とは、場所ではなくて人だろう。どこであっても、あなたがいればそこが故郷になる。ああ。私は今故郷を失ったのか。

隠れて生きない?

私たち、気も合うし。二人で生きていってもきっとうまくいくよ。深夜2時、あなたは目を輝かせながら私にそういった。部屋はプロジェクターの明かりだけで薄暗い。缶の氷結は全て空。流れているあなたの好きな洋楽は、どれもセンスが良くて心地いい。生きていくってどこで。どこでもいいじゃん。私たちならどこでも楽しく生きていけるよ。場所は関係ない。あなたがいればいい、とは言わないんだ。あなたは突然立ち上がると、ベランダにいってタバコを吸い出した。私たちの職場は従業員は禁煙なのに。あなたはなぜかバレない。なぜあなたからはタバコの匂いがしないのだろう。不思議な人だ。私もベランダに出る。夏の夜って涼しくていいよね。半袖半ズボンで外に出ても快適な季節ならなんでも好き。二人で住む場所は、ずっと夜は半袖半ズボンで過ごせるところにするか。適当すぎでしょ。笑い声が夏の夜にのまれていく。

あなたほど気の合う友人は一生できないと思ったけれど、今はあなたの居場所も知らない。人間って信じられない?だけど私は人を愛して生きたい。


誰かと隠れて生きたい。

ではまた。




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