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私のちょっと暗い青春 ~闇元~

こんばんは。

今回は、自分のための整理もかねて、息苦しくなり始めた、私の中学校終盤~高校時代について文章化してみようと思う。あまり、明るいものではないけれど。

時はさかのぼり、中学3年生。12月。
高校の志望校最終決定を1月に控え、志望校決定に心が揺れる時期。
私は、自分でいうのもなんだが、頭が良い方で、県で上位の進学校に行くか、偏差値を30ほど落とし、水産高校へ行こうか迷っていた。

(この高校を選んだ時の話もいつか別で記事を作ろうかな。)

というわけで…
ゴールは定まっておらす、入試も目前で受験勉強も佳境。
私はというと、部活が終わり、一息つくかと思いきや、ずっと忙しかったように思う。
なぜなら、塾を3つ掛け持ちさせてもらっていたから。
学校が終わったら、塾の自習室に行って受験勉強をする。そのあと、授業を受けたり、別の塾(通信教育)の課題をしたり、もう一つの塾へ行ったり…

そんな時、家族で休日夕ご飯を食べていた時、母に言われた言葉。
「あなたは、頑張っていない。怠けている。」
「もっとやれるでしょ。」

衝撃だった。一人でひどく泣いたように思う。
ちなみに、父は、昔から母の言うことに賛同するばかりだ。

母の名誉のために言っておくと、母は自己肯定感が低く、
「自分はこんなに能力が低い。だから死ぬ思いをして頑張ってきた。あなたは能力がある。ポテンシャルが高い。だからもっとできるでしょう。」
というようなロジックで、私に言葉をかけることが多かった。
祖母父からの愛を上手く受けることのできなかった母にとっては、
「あなたは能力が高い」
「あなたはもっと結果を出すことのできる人間だ」
という精一杯の我が子に対する「肯定の言葉」だったし、「信頼の言葉」だった。
そんなことは、物心ついたころからわかっていた。
しかし一方で、能力を本来より高くみられていること、自分の努力は加味してもらえないことから、悲しさを覚えていた。

でも、冷静になってみた。
確かにyoutubeを見ている時間もあったし、学校では友人と話している時間もあったなと。
「なんだ。今回は、私の努力不足か。」
「勉強して、見返してやろう」
そう思った。
12月、短い間だったが、がむしゃらに勉強した。
あの時は何か冷静さを失っていたように思う。

そして、12月の評定が出た。
私は、かねてより評定40が欲しいと思っていた。(9教科45点満点)
母とも、ずっと40点が欲しいねと話していた。

結果は…
見事「評定40」
私は飛び上がって喜んだ。
すぐに、ルンルンで家に帰り、母に見せた。
「やっと結果が出た。」
「やっと喜んでもらえる。」
「やっと努力が認めてもらえるんじゃないか。」
「やっと…」

そんな期待をして母に見せた。
母は、冷たく
「よかったね。もっと頑張りなさい。」とだけ言った。

私は絶望した。母と私は、同じ気持ちで同じ目標を懇願していて、
今回ばかりは一緒に喜んでもらえるし、私の努力を結果を通して見てもらえると思い期待していたからだ。

悲しく不機嫌な私を見て、
仕事が終わり帰ってきた父は、ことの顛末を私と母から聞いた。
親子けんかのようになり、気持ちが高ぶった私は母に聞いた。
「40点で嬉しかったのは私だけ?」
「母さんは嬉しくはないんでしょ!?」
母は
「嬉しくないわけがないじゃない!!」と叫んだ。
私の心は疑問でいっぱいだった。


そんな中、時は少し過ぎ、私は偏差値を下げて水産高校を志望することにした。
(この決定には色々な理由があるから別記事にしようとは思うが…)
もう、進学校へ行って、学力にとらわれて生きるのはうんざりだった。
もう、疲れていた。

この私の希望に関して話し合うのを皮切りに、確実に家族の仲は悪くなっていったように思う。

私の希望に同意できない父とのけんか。
私がしっかりと説明したら、応援してくれた母。
母のいう事なら、賛同する父。(本質的に私の意見に納得したわけではない。)

しかし、そんな中でも、私の希望どうり水産高校に進むことにまとまった。
許してくれた。
このことは、今では感謝している。
水産高校へ行って、家庭環境が恵まれていない子たちを見て、自分の思うとおりに進路が決まるありがたさを、いたく痛感した。
中学生時代は、頭ではありがたいと分かってはいても、体にまでありがたさの納得感がしみついていなかったように思う。
気づくのが遅くなって、恥ずかしいことだが…

しかし、この決定には制約が課された。
「大学へ行くために、進学校と同じように自分で勉強を進めること。」
(水産高校は、水産科目の勉強があるため、普通科目の勉強が少ない。)
私は、水産高校へ行きたいために、この制約に首を縦に振った。

そして、中学を卒業し…
高校入試前。

(私のいた学校は高校入試前に卒業式が終わり、入試まで1.5週間ぐらい学校がなかったと思う。)
水産高校を志望したということは、正直、どう転んでも入試には受かるような状況だった。(偏差値を大幅に下げていたし、評定はとれていたから。)

でも、進学校の入試を受けるようなつもりで受験勉強をしていた。
なぜなら、一つは、親に対する示し。二つは、その方がかっこいいと思ったから。
少しでも自分的にかっこいい状態で水産高校へ入学しようと思った。

でも…
入試1週間前に私の体は動かなくなった。
朝、起きれない。
机に向かえない。
何と表していいのかわからない絶望感。
何かをしているわけではないのに、夜眠れない。
そして昼夜逆転。

夜中、泣きながら傘村トータさんの「贖罪」という歌を聞いて、
「タヒにたい。」と思いながら、自分の腕に定規を押し付けて、傷がつくまでこすった。
(どこで覚えたのかわからない不完全な知識でリストカットのようなことをして、どうにか発散をしようとしていたんだと思う。)

どうかしている、通常の自分じゃないと思いながらも、どうにもならない絶望。
でも、こんなこと経験したことなかった。
落ち込みやすい自分だったけど、経験したことがなかったから、どうしていいのかわからない。
自分の努力不足だと思った。
入試に受かったも同然だから、甘えているんだと、自分を否定した。

家族も私が甘えていると思ったようだ。当然だ。
軽蔑の目が痛かった。

そんなぼろぼろのコンディションで入試に向かった。
正直、きちんと朝に起きて入試に迎えたことだけで奇跡だったと思う。
入試はぼろぼろのメンタル、睡眠不足の頭で、まったく解けなかった。

(高校へ入ってから、先生方には、頭が良い子が入学してきたような扱いをしてもらったように思うけど、入試当日の点数はボロボロだったと思う)

でも、評定が良かったことが効いたのか、合格することはできた。

4月、うきうきと心を躍らせて高校生活が始まった。

入試前までの気持ちなんかなくなったように。

あれは、やっぱり、自分の甘えだったんだと思った。

5月、なんだかタヒにたいという気持ちが帰ってきた。

あれ。なんで?

行きたかった学校へ行って、毎日充実している。

おかしいな。

自分をだましだまし、毎日を続けた。

6月、7月、8月…

どんどん、絶望感が募っていった。

それに比例して、入学前に約束していた進学校のような勉強ができなくなっていった。

高校には何とかいける。
でも、自分の勉強ができない。
遊んでいるわけではない。なのに毎日へとへと、パンパンだった。


疲れてしまったので、ここまでで。
また、近いうちに続きを投稿しようと思います。







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