36年の嘘~上海列車事故~第3章「3月24日、上海列車事故までの軌跡」
当考察シリーズの一覧はこちらです。
修学旅行の日程
1988年(昭和63年)3月に実施された高知学芸高校の修学旅行は、学校創立以来初めてとなる海外を目的地としたものだった。旅程は中国の蘇州と杭州を中心とした8日間。396名に上る同校の1年生を3班に分けての修学旅行となり、うち1班は国内の東北地方を目的地とし、中国へは2班が相前後して向かった。上海列車事故に巻き込まれたのは中国を目的地とする2班目(生徒179名)だった。この班の旅程は以下のとおりである。
3月21日(月)
夜9時20分に、高知港から今は無き大阪行の夜行フェリーで出発
3月22日(火)
伊丹空港(関空開港は1994年)から上海へ飛び、鉄路で蘇州へ移動
3月23日(水)
蘇州の観光で、寒山寺、虎丘、拙攻園などを訪問
3月24日(木)
午前中に蘇州の観光で北寺塔などに寄ったのち、鉄路で杭州まで移動
3月25日(金)
杭州での観光
3月26日(土)
杭州から上海へ移動し、午後に上海での観光
3月27日(日)
上海から空路で伊丹空港へ戻り、大阪港から夜行フェリーに乗船
3月28日(月)
朝6時40分に高知港到着、解散
蘇州から杭州へ
蘇州と杭州は直線距離だと120kmほどだが、線路は上海方面へ「逆くの字」型に敷かれている。中国高速鉄道においてもその傾向は変わらない。今ではその中国高速鉄道により1時間半前後で往来できるようになった蘇州と杭州だが、1988年当時の鉄道では何倍もの時間がかかっていた。一番早い特急列車で5時間半ほど、高知学芸高校の生徒たちが乗った311号列車は6時間14分かけて向かう予定だった。事故は3月24日に鉄路で蘇州から杭州へ向けて移動中、上海近郊で発生した。
さて、先述のとおり、311号列車は最速の特急列車よりも半時間以上長い所要時間をかけて杭州から蘇州へ向かう便であるが、それだけの余分な時間を要するという理由は大きく分けて2つある。
1つは311号列車が特急ではなく、急行あるいは快速相当の便だったということ。停車駅の数など詳しいダイヤは不明だが、特急よりも多くの駅に停車する便だということは明らかである。
そしてもう一つの理由は、蘇州までの最短ルートを走らないということ。下図をご参照いただきたいが、例えば同じく蘇州と杭州間を走る81号列車は特急だが、南翔駅から新南線を走って最短距離で蘇州へ向かうことになる。一方で311号列車は、おそらく上海方面へ向かう乗客を連絡便に乗り換えさせるために、京滬(けいこ)線を真如駅まで向かい、前後に方向転換をしてバイパス線を進むことになる。走行距離もさることながら、真如駅での折り返しのために機関車の連結し直しなどの手間を要することになる。
事故を起こした2つの列車について、事故当日の運行履歴は以下の通りである。
311号列車と機関車ND-0190
高知学芸高校の一行が乗り込んだ311号列車は、南京から杭州行の列車である。先頭にディーゼル機関車を配し、13両編成の客車を連結した14両で南京を出発(時刻不明)している。
午後0時過ぎ(推定)に蘇州駅到着。ここで、列車の最後尾に軟座車(グリーン車)の特別車両3両(上記の図にて1号車~3号車と表記)を連結し、以降は16両編成での運行となった。この3両の特別車両こそは高知学芸高校一行のために貸し切られた特別車だった。
連結作業と乗客の乗降を終えた311号列車は午後0時38分に蘇州駅を出発。先述の折り返しを行う真如駅には午後1時40分に到着している。
南京からここまで牽引してきた機関車はここでお役御免となり、午後1時51分に新たに別の機関車が、それまで最後尾だった客車に接続された。つまりそれまで最後尾だった高知学芸高校一行が乗っていた3両が、真如駅からは機関車に続く前方車両として運行されることになった。
新たに接続されたND-0190という型番を持つディーゼル機関車は杭州機関区に所属しており、運転室には周小牛(当時45歳)と運転助手の劉国隆(当時33歳)の2名がいた。周は1958年に鉄道局に入り、1969年から運転手になったベテラン。劉は1977年から助手を務めていた。
この日、「ND-0190」は周と劉の運転により、午前8時50分に上海行の120号列車を牽引して杭州駅を出発した。そして午後0時45分に予定通り真如駅に到着し、120号列車を上海機関区に引き渡した。
午後2時7分、新たに接続された「ND-0190」の牽引により、311号列車は進行方向を変えて再び杭州へ向けて出発した。
311号列車は滬杭(ここう)線へのバイパス線(単線)を走る。次の匡巷駅では乗客の乗降のための停車はないが、対向列車(208号列車)との行き違いのために匡巷駅の待避線に入って停止することになっていた。
そしてダイヤ通り、午後2時18分に匡巷駅まで到達した311号列車は待避線へと入っていった。しかし311号列車は規定通りに停止することはなかった。
208号列車
一方の208号列車は、長沙から上海行の列車だった。運行総距離は1,187km。運行ダイヤについての詳しい情報は見つけられなかったが、客車は寝台車両だった旨の記録があるので、おそらく前日3月23日に出発したのではないか。
311号列車同様に先頭に機関車を配し、12両編成の車両を繋いだ合計13両での運行だった。終点の上海を目前にしての事故だった。
なお、後の章でも触れるが、事故から2カ月近く経過した後に来日した中国政府の慰問団による遺族や関係者を前にした説明会において遺族から投げかけられた疑問点の一つとして「ダイヤがおかしかったのではないか」というものがあった。
この遺族が現場の路線のダイヤを調べたところ、311号列車は匡巷駅の待避線で8分間停止することになっていた。普通ならば、311号列車が既定の位置に停止したのち、数分経ってから対向列車が本線を通過していくのではないか。
しかし、上海列車事故においては、311号列車は待避線を越えて本線に入ってからほんの20mほどの地点で208号列車と正面衝突している。つまり311号列車が規定通りに待避線で停止したのとほぼ同時に208号列車が横を通過していくことになる。そのような危険なダイヤの組み方がありえるのか。
中国側は遺族の追求に対してダイヤ通りの運行だったと繰り返すばかりだった。しかし、それは嘘だった。
上海列車事故について長年取材を続けてきたジャーナリスト・西岡省二氏は2016年の暮れ、北京の図書館にてこの年に中国の鉄道当局が出した鉄道事故防止用の資料を手に取った。その中には上海列車事故の項目があった。
そこには、311号列車側の停止信号見落としという中国政府の公式発表を踏襲しつつ、208号列車の運行にもミスがあったことが書かれていた。
208号列車が事故の前の停止した封浜駅で、駅の配車担当者のミスで本来より2分早く出発していたのだった。
今シリーズは311号列車の2号車(3両目)が「なぜあのような壊れ方をしたのか」ということを追及することが主目的であり、208列車側の過ちは本論ではない。しかし、当時の事故現場は見通しの良い開けた場所だった。208号列車がダイヤ通りに走っていてくれたならば、結果が違っていたかもしれない。
参考資料
・シルクのブラウス(著:中田喜美子)
・上海列車事故 29年後の真実(毎日新聞web版連載・西岡省二氏)
・その他、はいらーある様のHP「不思議な転轍機」掲載の中国の鉄道の車両画像を引用しています。
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