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『冒険の書』が休学中の私に刺さった

2024/09/11

今日は、昨日から読み始めて今朝読み終わった『冒険の書』について、個人的な気づきや感じたことを中心に書いていこうかなと思います。

ちなみに、本書を私はだいぶ前に手に取っていました。しかし、本の冒頭で「父」から「君」に対して「この本を人生の冒険に出た後に読んでほしい」という記述が手紙の内容としてあったので、なんとなく休学生活が始まってから読みました。

なので個人的にはタイミングばっちり感がありました。
そして、自分が休学を選ぶきっかけとなった様々なモヤモヤと、筆者が指摘していること・問いが重なっている部分も多くあったと感じました。


『冒険の書』は、


「学校ってなんだ?どうして行かなくてはならないんだっけ?」
「学びとは?能力って?」
「そもそも役に立つってどういうこと?」
「世界を変えるにはどうすればいいか?」


のような素朴でありながら根本的な問いを起点とし、その問いに関して著者が歴史や思想的な起源にまで遡って探求・思考を繰り返していくという内容が展開されていきます。



ここからは個人的に印象に残っていることや感じたことを。

私が学校での息苦しさや学びの楽しめなさを感じていた理由は、「学校」というもののルーツやその特性にあるのではないか。

著者はまず学校教育のルーツは「争いの絶えない社会状況を良くするには教育しかない」という17世紀の社会状況に対応するために生まれた観念にある。そして学校のシステムは近代における工場の分業システムを応用したものであり、効率の追求や学びの定型化が行われたことで「何のために学ぶのか」が置き去りにされ、学校のシステムが自由な学びの機会を奪っていると説明しています。

そのため、学校教育に対して私たちは受け身・教育サービスの消費者になりやすく、学びの選択肢が多様化している現代においては果たしてこの形が最適なのか・どんな意味があるのかと感じるのではないか?
と、内容を踏まえると受け取ることができます。


ここで私自身を振り返ってみると、学校(特に中高)では確かに人の目や評価がまとわりついてくる感覚があってどこか息苦しかったり、何のために学んでいるかがよくわからないまま与えられたものをこなしてきてしまいました。

学校教育という時間の蓄積は深く根付くもので、私は大学二年目まで人の目や評価を気にする姿勢を引きずってしまったという認識があります。
また、学びは本来もっと楽しいはずだという中高の時は持ちえなかったマイインドをもって大学にて主体的に学ぼうと努力しましたが、授業の形式はやはりこちらが受け手にならざるを得ないデザインだったので、その点でイメージ通りにいかない難しさを感じました。

そのあたりのうまくいかなさが、「このままの状況で学び続けていいものか?」と私に感じさせたのも休学を決めた要因の一つだと思います。

どうして私はこんなに評価や他者の目を気にしてしまうのだろう?
どうしてそこから抜け出せないのだろう?
どうしたら楽しく学べるのだろう?



私を縛っているのは「能力信仰・メリトクラシーの社会状態」かもしれない

①での問いに対するヒントは「能力信仰・メリトクラシー」にあると文章を読んで感じました。
私が成績などの評価をどうしても気にしてしまうことだけでなく、一般に勉強しなさいと先生が言う理由もここにあるように思われます。

著者の記述を参考にすると、私たちが生きる産業社会は、産業革命後の「分業」と「機械化」を特徴とする生産システムの中で人間も機械同様になっていき、成果で評価されるようになったため、絶えず「能力」をアップデートし続けることを要求される社会です。
これと連動して、優生学を起源とし知能テストの普及によって生まれた統計的な概念である「能力」は通貨のような存在となり、人々は「能力さえあれば何でもできる」と考えるようになったと言います(能力信仰)。

そのため学校は生徒に「能力」を身につけさせる場所になり、同時にチャンスの平等と結果の自己責任を生徒たちに与えます。
これを支えているのがメリトクラシーという「社会における人間の地位は、生まれなどによって決まるのではなく、その人の持つ能力によって決まるべきである」という考え方です。


少し長くなりましたが、ここまでの著者の説明を見てみると、やはり今の社会は「能力」を高める努力をしない人を非難したり、自分より能力の高い人を羨ましがって自己嫌悪に陥ったり、逆に自分より能力の低い人を馬鹿にして安心しようとしたりする社会なのではないでしょうか?

私が評価に怯え、そこから解放されたくても、それは落ちぶれてしんどい未来が待っているのではないかと感じてしまい抜け出せないという状況にあるのは、自分より優れている能力を見て自分なんかと思ってしまうのは「能力信仰・メリトクラシー社会」であるからなのでは?

と、そんな風に感じました。


頑張ってこの現状の社会の性質に合わせる選択肢もあるけれど、でもそれは人と比べてギスギスしたり、脱落する人は自己責任であるとして分断を正当化してしまえることを複製してしまうことになるのではないか。

能力という点で人間を超えつつある人工知能が台頭している今、私たちは改めて変革を考えるべきだと著者も主張していましたし、私も同意します。(そのための処方箋も本の中ではいくつか挙げられているので気になる方はぜひ手に取ってみてください)



「遊び」が忘れ去られ、つまらない「勉強」や「仕事」となった

著者によると、元々「遊び」と「勉強・仕事」は1つだったのにそれらは別々にされてしまったといいます。
「遊び」と「仕事」は社会が工業化したことで、雇われてお金のために働くことが働くことだとして区別されるようになり、「遊び」と「勉強」は学校において勉強時間と休み時間が決められたことで区別が始まったのです。

ここまでを見て、確かに私の中で「遊ぶこと」はどこか怠けというか、「何遊んでいるんだ!」と注意されてしまうようなイメージがあったのですが、これはその区別によるものなのだなと腑に落ちました。

ですが「遊び」こそやはり楽しさを感じさせてくれるものであり、それは学びや仕事と一体になれるはずなので、今一度「遊び(消費ではない)」を大事にしてみたいと思いました。

ここに関連して読むならホイジンガの『ホモ・ルーデンス(Homo Ludens)』とかですかね?

更なる探求をしたい部分だと個人的に感じました。




やりたいことを無意識のうちにお金になるようなことでなければと限定してしまっている

「自分の商品価値を上げるようなことであり、なおかつ自分が本当にやりたいこと」。それこそが、この資本主義社会で初めて「やりたいこと」として認められる。そんな厳しい制約条件がつくのなら、やりたいことがなかなか見つからなくても当然です。

孫泰蔵『冒険の書:AI時代のアンラーニング』日経BP, 2023. p.283

「お金さえあれば何でもできる」そんな自由が平等に与えられる資本主義社会の下では、やりたいことを『それはお金になるのか』という観点から制限してしまうのも自然なことなのかもしれません。

しかし、変に制限されている状況とか、自身を商品としてばっかり見られるのはなんかムカツク。

また、著者が指摘しているように、この資本主義がもたらす「1人で生きていけるようになることが自立だ」ということ、それは同時に誰からも必要とされなくなる無縁社会をもたらす。

だとすれば私はそれを歓迎しない、それは豊かではないと感じるので「では私はどうしたらいいか」を考えていきたいと思いました。



無用之用

ムダというものは存在しない。ものの見方次第。
役に立つとか立たないとか、それって一つの尺度からしか判断してないんじゃない?

今の社会がこうだからって合わせたら変わるものも変わらないんじゃない?

一回全部白紙にして、自分のスキを見つめなおす。
楽しいと感じることをする休学期間に。




おわりに

思っていたよりも長くなってしまいました。
それだけ私には刺さるものがあった本書でした。

私たちは、ただなんとなく世の中の流れにしたがうことで、自分自身がディストピアをつくり上げる一員になってしまうことを自覚するべきです。逆に言えば、みんなが少しずつでも自分の頭で考え続ければ、すなわち、「思考停止」をやめれば、世界はガラリと変わるはず。常識に縛られ、不安にかられ、自分の本当の気持ちを抑え込んで生きるのをやめさえすれば、本当はみんな楽しく生きていけるはずです。

孫泰蔵『冒険の書:AI時代のアンラーニング』日経BP, 2023. p.39

この一文を読んで私は「もしかしたら今自分がこうして休学という形で一度立ち止まったのは、自分の頭で考え始めようとしているからなのではないか」と感じました。

今自分が抱えている感覚は社会という大きなものとのつながりがある。
そのため、ふとした瞬間にもういいんじゃない?流されてしまおうか?と感じたり、希望の見えない感覚に陥っていることがあるのですが、本書を読んでやっぱり自分が抱えているこの感覚を手放してはいけないなと思いました。

「まずは自分が変わること」

私はこれから「自分の楽しい・好き」を探求していくぞ~


最後まで読んでいただきありがとうございました!

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