見出し画像

場面緘黙症の中学生が受けた「いじめ」。ただ耐えて、呪うしかなかった。

 人は、自分とは明らかにタイプが違う人物を目の当たりにしたとき、いくつかのパターンに分かれると思う。
 一つ目のパターンは、その違いを尊重し、受け入れる人。多様性なんて言葉が流行る前から、自然とできる人はいた。
 二つ目は、違和感を覚えながらも関与しない人。これも大事。傷つけられるくらいなら、無関心の方がまだマシだ。
 そして三つ目が、違いを理解できず、放っておいてもくれず、攻撃をしてくる人だ。これを、「いじめ」と言う。年齢が上がるにつれて、そうしたパターン化が顕著になり、中学生にもなると、いじめという攻撃をしてくる奴らが出てきた。

最も人の死を願った12歳の秋

 今から約25年前、私は、場面緘黙症を克服できないまま地元の公立中学に進学し、1年のクラスメートの男子2人からいじめを受けた。
 「最初」がいつで、それが何だったか、もう覚えていない。二学期には確実に始まっていた。
 何で授業中にしか喋らないのかという“口撃”が、「喋れ」と命令されるようになり、当然それでも喋らないから、次第に実害のある攻撃に変わっていった。筆入れを取られて隠されたり、腕の皮膚をつねられたり、上腕をパンチされたり、背後から突然浣腸されたり、水筒のお茶を勝手に飲まれたりもした。
 当時から、いじめを苦に自殺する若者のニュースはあったが、まさか自分がいじめの当事者になるとは思ってもいなかった。風呂に入った時、つねられて赤くなった腕を見ながら、ひとりで悔し涙を流した。
 喋れないから、「やめて」とも言えなかったし、やり返すこともできなかった。例えば、カッターナイフでそいつらを刺し殺すことも物理的にはできたが、そんな心の強さがあれば、そもそも場面緘黙症という情緒障害になっていなかっただろう。

 私にできたのは、夜に自分の部屋で、いじめてくる奴らに呪いをかけることだった。赤い字で名前を書くと寿命が縮まるという、何の根拠もない迷信にすがるしかなかった。
 まず、大学ノートを1ページ破り、真ん中にいじめてくる奴の名前を赤のボールペンで大きく書いた。そして、その名前の周りを「死」という文字で囲っていった。
 イメージしたのは、棺桶だ。大学ノートが棺桶、赤字で書いたそいつらの名前が死体だ。死体の入った棺桶を菊の花でいっぱいにするように、何百もの赤い「死」という文字で、ノートを埋め尽くした。そして、真っ赤になったノートを折りたたみ、人型を書いて、藁人形に五寸釘を打ち付けるように、それを画鋲で刺しまくった。「神様仏様、どうかこいつらを殺してください」と祈りを込めて。後にも先にも、人生で最も人の死を願ったのが、12歳のときだった。
 だが、私の願いは、叶わなかった。そいつらは、死んでくれなかった。怪我の一つもしてくれなかった。だから、私へのいじめは続いた。

親にも教師にも言えなかった

 親に助けを求めるなんて発想はなかった。家では、反抗期を迎え、親に口答えもしていたから、実は学校ではいじめられているなんて絶対に知られたくなかった。
 そもそもうちの親は、喋れない私に寄り添ってくれたことが一度たりともなかった。保育園の頃から、私が友達とは喋らないことを知っていたはずだ。「話しなさい」などと干渉されたことはなかったが、喋れないつらさを理解してくれたこともなかった。だから、困っているときや苦しんでいるときの相談相手にはなり得なかった。これは、大人になってからもそうだ。

 教師にも言えなかった。当時、「教育相談」という名前で、生徒全員が担任と1対1で面談をする場があったが、まさにいじめを受けていた時の二学期の面談でも、私はいじめられていることを言えなかった。最後に「何か困ったことはないか?」と聞かれたが、私は「ありません」と嘘をついた。
 本当のことを言えば、追及されると思ったからだ。いじめられる理由を問われた挙句、「何で君は先生以外とは喋らないのか?」と。「場面緘黙」という言葉もない時代だ。自分でも喋れない理由が分からないのだから、人から理解されるわけがないと無意識ながら感じていた。
 誰にも相談できず、誰にも苦しみを理解してもらえず、喋らないことを理由にいじめられ、いじめをする加害者には何の天罰も与えられず、ただただ苦しい毎日を送りながら、それでも私は、毎日学校に通い続けた。
 当時は、「不登校」という言葉はなく、「登校拒否」と呼んでいた。約100人の学年で1人いたくらいの稀なケースだった。学校を休むという選択肢は、私には初めからなかったのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?