モトカン

保育園入園から中学卒業まで、家族以外とは話ができない「場面緘黙症」だった元緘黙ボーイです。現在は、毎日嫌々ながらも働いて、税金を納めているアラフォー社会人です。最近になってようやく、緘黙だった自分と向き合えるようになりました。誰かの役に立つのなら、自分の経験を発信していきます。

モトカン

保育園入園から中学卒業まで、家族以外とは話ができない「場面緘黙症」だった元緘黙ボーイです。現在は、毎日嫌々ながらも働いて、税金を納めているアラフォー社会人です。最近になってようやく、緘黙だった自分と向き合えるようになりました。誰かの役に立つのなら、自分の経験を発信していきます。

最近の記事

  • 固定された記事

「何で喋らないの?」という質問に意味はない。聞いたところで喋れないんだから。

 noteの最初の投稿は、場面緘黙(ばめんかんもく)とは何か、から始めたい。  緘黙をいう漢字を初見で「かんもく」と読むのが難しいほど、一般には聞きなれない言葉だろう。場面緘黙の理解促進に取り組んでいる非営利の任意団体「かんもくネット」のホームページには、次のように書かれている。  これが、緘黙だ。この投稿では、これから「場面」という言葉は省略して、「緘黙」と表記することにする。  私が、緘黙を発症したのは、保育園入園がきっかけだった。  “気づいた時”には、保育園では喋

    • 場面緘黙症は、誰の幸せにもならない苦しみだった。

       このnoteの投稿は、私が場面緘黙症で喋れなかった少年時代の実体験を綴るために始めたものだが、気がつくと、あの頃言いたくても言えなかったことを、反動のように、復讐のように吐き出していた。  何も好き好んでこの障害になったわけではない。喋れるものなら喋りたかった。  でも、それができなくて苦しんだ。周りから理解されないことも、寄り添ってもらえなかったことも悲しかったし、つらかった。  そしてこの苦しみは、誰のためにもなっていなかった。誰かの幸せのために自分が苦しんだわけではな

      • 「熱血教師」「合唱地獄」「フワちゃん」

         場面緘黙症を克服できないまま中学生になった私は、それが原因で、中1、中2とクラスメートの男子からいじめられた。中2で生徒会長とバスケ部キャプテンになった別の男子からは、「何で喋らないんだ!」と本気で責められた。そいつとも2年間同じクラスだった。  喋れない私は、何も言い返すことができず、暴力という手段でやり返すこともできず、誰に相談することもなく、誰からも寄り添ってもらうこともなく、ただじっと耐えるしかなかった。家に帰り、親の前では何事もなかったかのように振る舞い、自分の

        • 喋りたいという「正欲」

           直木賞作家の朝井リョウの原作で、2023年に公開された映画『正欲』のワンシーンだ。ヒロインを演じる新垣結衣が、稲垣吾郎演じる検事にそう問いかける。それは、立場が逆転したように、新垣が稲垣に詰問しているように映った。  怒り、理不尽、苦しみ…あらゆる負の感情を押し殺しながら、それでも言わずにはいられなかったであろうと言葉と、彼女の突き刺すような鋭い眼光に、このシーンをNetflixで観ながら、私はひとり涙を流した。 「喋れない自分」を説明できない 自分がどういう人間か、人に

        • 固定された記事

        「何で喋らないの?」という質問に意味はない。聞いたところで喋れないんだから。

          生徒の「心情」が分からない国語教師

           場面緘黙症を克服できないまま中学に進学した私は、喋らないことを理由に、クラスメートの男子生徒二人からいじめを受けた。腕をつねられたり、筆入れを取られたりしたが、担任の男性教師の介入以降は、いじめられることはなくなり、そのまま2年に進級した。  だが、新学期早々、絶望することになった。  私をいじめてきた二人のうちの一人とまた同じクラスになったのだ。いくらひと学年に3クラスしかなかったとはいえ、学校側の配慮のなさと認識の甘さに絶望した。それに、小学生のときから、喋らない私を

          生徒の「心情」が分からない国語教師

          「誰か」が担任に言ってくれて、いじめは収まった。

           保育園で場面緘黙を発症し、それが治ることなく中学に進んだ私は、授業中以外は喋らないという普通ではないことを理由に、クラスメートの男子生徒二人からいじめを受けた。腕をつねられたり、パンチされたり、物を取られたりしたが、「やめて」と言うこともやり返すこともできなかった。  時は、90年代の後半。不登校という言葉もなく、学校を休むという選択肢はなかった。誰にも相談できず、喋れないことも、いじめられていることも、一人で抱えながら毎日学校に行き続けた。  教師からの突然の呼び出し

          「誰か」が担任に言ってくれて、いじめは収まった。

          場面緘黙症の中学生が受けた「いじめ」。ただ耐えて、呪うしかなかった。

           人は、自分とは明らかにタイプが違う人物を目の当たりにしたとき、いくつかのパターンに分かれると思う。  一つ目のパターンは、その違いを尊重し、受け入れる人。多様性なんて言葉が流行る前から、自然とできる人はいた。  二つ目は、違和感を覚えながらも関与しない人。これも大事。傷つけられるくらいなら、無関心の方がまだマシだ。  そして三つ目が、違いを理解できず、放っておいてもくれず、攻撃をしてくる人だ。これを、「いじめ」と言う。年齢が上がるにつれて、そうしたパターン化が顕著になり、中

          場面緘黙症の中学生が受けた「いじめ」。ただ耐えて、呪うしかなかった。

          相手のミスに狂喜乱舞するソフトテニス界の病的慣習

           保育園で場面緘黙を発症した私は、小学校入学や小4での転校という環境の変化がありながらも、緘黙を克服できないまま地元の公立中学に進学した。小学校の同級生が、同じ地名を冠した中学校にそのままエスカレーター的に上がる形となった。  喋りたくても喋れないという現実に加え、それを理解してくれる人が全くいないことの苦しみは、ここからが本番だった。私は中1から、喋らないことを理由にクラスメートによるいじめを受けたのだが、その前に直面した壁が、部活だった。  男子生徒のほぼ全員が、運動部に

          相手のミスに狂喜乱舞するソフトテニス界の病的慣習

          教師には何も期待しない。だからせめて、放っておいてほしかった。

           1年以上前の2022年12月。場面緘黙症だった私にとって見過ごせないニュースがふたつあった。  ひとつは、以前の投稿でも触れたが、静岡県裾野市の保育園で、保育士が園児を虐待した暴行容疑で逮捕されたこと。私も、約35年前に保育士から心理的虐待を受け、無理やり喋らされた経験があるので、他人事ではなかった。  もう一つが、熊本市教育委員会が、2019年に自殺した男子中学生の小6のときの担任教師を懲戒免職にしたことだ。その教師は、複数の児童に体罰や暴言を繰り返したことが「不適切な指

          教師には何も期待しない。だからせめて、放っておいてほしかった。

          「15字喋ったら死ぬ」と馬鹿にされた悔しさは、死ぬまで忘れない。

           前回の投稿で書いたように、引っ越しに伴い、小学4年で転校したことは、場面緘黙を克服するチャンスだったのだが、結果的に私は失敗した。転校当初は頑張って喋っていたが、いつの間にか、喋れなくなっていた。  それまでの人生は、「喋らないことが普通」だったから、突然普通ではないことに舵を切ろうとしても、小さな身体と心は、自然と「普通」の方に戻っていったんだろう。何十年も経った今、そう自己分析している。  ただ、人というのは、年齢が上がるにつれて残酷になっていくことも判った。  小学4

          「15字喋ったら死ぬ」と馬鹿にされた悔しさは、死ぬまで忘れない。

          「はい」と「いいえ」だけでは主人公にはなれない。ドラクエとは違う緘黙児の現実

           これまで書いてきたように、私は保育園児のときに、家族と先生の前以外では話ができない場面緘黙症を発症し、それが固定化した状態で小学生となった。小学3年までは、友達と喋れないながらも何とか学校生活を送っていたところに、転機が訪れた。  親がマイホームを建てたことにより、転校したのだ。  9歳の私は、誰に何を言われたわけでもなく、新しい学校に行ったら、クラスメートと喋ろうと決めていた。  平成になって間もない頃。  当時はまだ、場面緘黙などとという言葉はなかった。発達障害も存在

          「はい」と「いいえ」だけでは主人公にはなれない。ドラクエとは違う緘黙児の現実

          【番外編その3】埼玉県虐待禁止条例改正案に反対するおかしさ

           「児童虐待」は世間の関心があるのか、よくニュースになる。  最近では、埼玉県虐待禁止条例改正案が、委員会の審査は通過したものの、世間からの反発を受けて、本会議で取り下げられた。  私自身、今から約35年前に園児だった頃、保育士から虐待を受けた経験がある身なので、こうした問題に関心がないわけではない。  だけど、この本会議の傍聴席でヒステリックに野次を飛ばして反対していた‟変な人”に聞きたい。そして、上記に引用したのは、検索してヒットした新聞記事が出典だが、これを書いた記者

          【番外編その3】埼玉県虐待禁止条例改正案に反対するおかしさ

          喋らない子は、「大人しい」でも「真面目」でもない。

           これまでの記事で書いてきたように、私は、保育園に入園して場面緘黙症を発症し、保育士から虐待を受け、家の中と先生の前以外では全く話せなくなった。これは、中学を卒業するまで続いた。進学した高校の最初のクラスには、同じ中学の生徒がいなかったという環境もあり、自らの強い意思によって、緘黙を克服した。  その経験から言えることは、脱・緘黙は、早ければ早いほどよいということだ。 トラブルを起こさないだけ  保育園や幼稚園で緘黙を発症した場合、最初に克服するチャンスは、小学校入学だ。

          喋らない子は、「大人しい」でも「真面目」でもない。

          「ありがとう」が言えなかった。でも、「ありがとう」の気持ちはあった。

           今から約35年前、保育園児のときに場面緘黙症を発症した私は、小学校に入学してからもそれが治ることはなかった。  言葉を交わすのは、家族と先生だけ。  親戚とは、いつの間にか喋ることができなくなっていた。  緘黙発症後も、離れて暮らす祖父母やいとこ、おじ・おばとも話すことはできていた。これは、確かな記憶だ。  だけど、いつからかは覚えていないが、″気づいたとき”には、年に数回しか会わないその親戚たちとも話すことができなくなっていた。  慣習というのは恐ろしいもので、一度、家

          「ありがとう」が言えなかった。でも、「ありがとう」の気持ちはあった。

          横断歩道での拷問。ここから「あって言って」攻撃が始まった。

           私は、小学校入学時に、場面緘黙を克服することはできなかった。 誰からの支援を受けることもなく、クラスメートと少しずつ喋れるような環境を作ってもらうこともなく、保育園のときと同じように、家族と先生の前でしか喋れなかった。  今から約30年前、緘黙という言葉もなかった時代は、これが現実だった。  同じ保育園から入学した顔見知りは少数で、他の保育園や幼稚園出身の子もいた。1学年に約100人いたから、初対面の子の方が多かった。人の数も校舎の大きさも、保育園よりはるかに大きな世界に身

          横断歩道での拷問。ここから「あって言って」攻撃が始まった。

          【番外編その2】希望がないこの国に、子どもを産み落としたいと思うか?

           このnoteは、自分が緘黙児だった頃の体験を書こうと始めたものだ。  ここ数か月は、記事の更新をしていなかったから、そろそろと思い過去の記憶を手繰り寄せようとしていた矢先に、衆議院解散と総選挙の可能性があると報じられるようになった。  前回の総選挙は、2年前の2021年にあった。まだ任期の半分も過ぎていないにも関わらず、また選挙をやるという。  野党が、内閣不信任案を提出することが解散の大義になるとか国民に信を問うとか、そんな政治家の暇つぶしに付き合わされることのあまりのバ

          【番外編その2】希望がないこの国に、子どもを産み落としたいと思うか?