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世界における牽引と徴候


この論考は、ニセアカシアの香りから着想を得て作られた。木々たちの香り、ニセアカシアは現在を、金銀花はまだ到来していない香りの予感を、桜はすでに過ぎ去った過去の余韻を、それぞれ現在に持ち越して香っている。この匂いの中で、「予感と余韻と現在」の時制を考える。世界は現在の記号だけでなく、予感と余韻という表象され得ない意味を有している。

世界における牽引とは

 世界は「牽引」が満ち溢れている。プルーストはマドレーヌの香りから遠い過去の記憶を牽引して現在に呼び起こす。「牽引」とは引き金であって、それを発見するとひとつの世界が展開される。嗅覚は五感の中で唯一、嗅細胞、嗅球を介して、本能的な行動や喜怒哀楽などの感情を司る大脳辺縁系に直接つながっているため、より情動と関連づけしやすいという。認知症の人に過去の想い出と結びついた香りを嗅がせると、それまでは思い出せなかった家族のことがよみがえることもある。このプルースト現象は特異な記憶処理を経ている。嗅覚におる記憶想起は心的外傷によるフラッシュバック記憶と関連する。これは言語的な記憶処理が生じず、体験そのものが当時のまま再現されるという、想起の構造が類似しているためであろうか。

微分回路と積分回路

 認知様式には、「微分回路」と「積分回路」がある。微分回路は認知手段として先取り思考的なものである。航空機の速度計の例のように、少し前の値を予測して弾き出す。それは変化のみを拾って近い将来を予測するからこそ、過去の経験への参照がなく済むというのが最大の長所だが、変化のみを記録するとその変化の増幅があった場合、容易に動揺が拡大されることになる。微分回路とは過去の蓄積でなく、現在の変数の入力によって認知を維持する仕組みゆえに、長期的に見て負担が大きく不安定となる欠点を持つ。

動揺と疲労という2軸を考えると、統合失調症との親和性が高い認知形式だろう。微分回路が高まるときは不安が生じたときである。この認知によって警戒が生じて五感が研ぎ澄まされる。些細な物音、味覚の敏感性、嗅覚の促進など、些細な変化に敏感になる。そのため、ホワイトノイズを拾っていき、小部分から全体を推測するようになる。その意味で、微分回路は記号学でいう「シンタグマ志向」と呼べるだろう。

一方、積分回路は微分回路の逆になる。積分とは過去の体験を蓄積してそれらを参照して認知するという比較的安定したシステムになる。しかしながら、例外的な入力があった場合でも多くの事例の一つとして入力され埋没してしまう。この入力を多くの中から、一つのものを選び取るシステムとしてみなすと、積分的認知は「パラディグマ的」と言えるだろう。これは必然的に過去を参照している分、時遅れの思考になる。うつ病的な認知とも言えよう。

認知システムの瓦解について

柳田邦男の事故学に「事故とは迷路に入って障害にぶつからずにスッと出てくること」だという意味の言葉がある。迷路とは安全装置の役割を持っているシステムといえる。積分回路はこの役目を担う。一方の、微分回路は先に失調を起こすシステムであって、不安に敏感に反応する不安定のシステムである。そして、残りの積分回路は、事故学のような奇跡的な抜け道によって迷路がうまく作動しない時に統合失調的な認知システムの崩壊が起きるのではあるまいか。

 世の中には頭のいい人というのがいる。しかし、そういう天才は発想が奇抜で特異的なものを発見する能力に長けている。その場合、微分的回路を駆使している場合が多いだろう。過去の蓄積から天才的な発想が生まれることは少ない。全て天才はそれまでの人類が獲得し得なかった真理に到達する意味で、思考の飛躍を持った微分的認知が優位にある。しかし、この認知システムは脆いため、制御棒が必要になる。一人の天才の横には、世話役がいるように、天才とは個人現象ではなく小集団現象なのである。

 さて、体験の強烈さと持続時間は反比例の関係として感じられる。この許容できる体験、「許容体験」があってこれから外れると「異常体験」となる。異常な体験であっても、その体験の持続時間が少なければ、カオスの体験、祭りの体験、神秘体験として感じられることがあるが、持続時間が長くなるとその体験はストレスとして感じられる。祭りとは何日にもまたがってするものではない。同じように、恋愛が短期間しか続かずに、ながい安定した結婚生活に収斂されるのはこの持続時間に関係があるのだろう。強度を保とうとすると生体への負荷はひどいものになる。その鎮静としての慣れが生じる。

 日常世界は微分と積分の認知バランスによって保たれている。微分すぎる世界は不安定そのものだし、積分しかない世界は情報量の多さで生体は処理しきれなくなる。本の表紙を見たら内容が全て頭の中を埋め尽くすというようなことになりかねない。

メタ世界という認知様式

ここで、「微分世界」と「積分世界」を「メタ世界」と名づけてみる。物理的な空間に対して、観念的で一つ次元の高いところから世界を見るシステムだからである。プルースト的な世界を牽引としてみる認知は積分回路によるものだろう。世界とは記憶の総体になる。全ての事柄に自分の記憶が結びついて牽引の印となる。一方で、微分的メタ世界は晦渋である。それは詩の世界とも言えよう。「詩とは言語の徴候的優位使用によって作られたものである」とは中井の詩の定義である。

 フロイトにとって、夢と白昼夢において顔を出している夜の意識の断片である失策行為とは、彼がいう「メタ世界」である「無意識」が存在するということの「牽引」であり「徴候」であった。彼の探究は徴候と牽引を一つにしてその秘密を解き明かすことにあり、徴候=牽引とするための理論を組むことだった。フロイトの夢、自由連想は患者に意図的に失策行為を生じさせるための方法であって、「メタ世界」となっている患者の過去への接近の方法であった。

 人格とは個人的過去の相対であり「イディオス・コスモス」の性質を帯びている「メタ世界」すなわち「イディオス・メタコスモスである。私の「メタコスモス」を端的に「メタ私」とする。「メタ私」は現在の意識内に即時全展開はできない。それは私の崩壊を意味する。この崩壊の阻止システムをサリヴァンは「自己組織self-system」と呼んでいる。統合失調症はこのシステムの崩壊である。そのため、メタ私を十分に知ることは叶わない。しかし、他者のメタ私についてならば、メタ私よりも接近することはできるのではないだろうか。そもそも、私の現前する私については古典的な逆説がある。「私は考えると私は考えると私は考える」というように無限後退して「ある」に到達しない。このような無限遡行が生じるシステムには必ずどこかに「制御されるもの」が「制御するもの」になっており、円環構造になっている。多くの水準の生命システムはこのようにして初めて安定する。意識を支えるのは運動感覚、視覚、聴覚、足裏の感覚、痛覚、筋肉運動覚である身体装置であるから、これらが「制御されつつ制御している」因子であることが考えられる。この「メタ私」の現前性に比して「他者のメタ私」はまだ理解できるものである。メタ私の理解は当人を崩壊させるものであるから、他者に対してのメタ私も同様の理論を持つ。家族や親友などの重要な他者に対する無知も、ほとんど同じ意味でこの無知は日常生活の遂行の上で必要条件とも言えるだろう。ヴェルター・シュルテが「私であったものをエスに返してやることも必要だ」といったことが思い出される。

予感、徴候、余韻、牽引

「予感」と「徴候」、「余韻」と「牽引」の関係性について。
この両者の現実に「予感」は「徴候」の出現に伴うこともあるが、先駆することが多く、「予感」とは「徴候」を把握しようとする構えが生まれる時の共通感覚であって「明確な徴候以前の微かな徴候というプレ徴候を感受すること」といえる。

「予感」と「徴候」はこの区別と関係性をもつ。「余韻」とは経験が分節性を失って、ある全体性を持って留まっていることを言う。不思議の国のアリスの笑い声だけ残すチャシャ猫の笑い声のようなものである。それは積分的な「余韻」といえる。しかし、余韻と予感には相通じる性格がある。それは示唆性である。余韻の感受は予感の感受と似ている。

「徴候」と「予感」の関係性の方を考えてみる。「徴候」は「在の非現前」、「予感」とは「非在の現前」である。「徴候」とは必ず何かについての徴候である。これに対して「予感」というものは、何かをはっきりと徴候することはあり得ない。それはまだ存在していない何かであるが存在しようと息を潜めているものである。同じことが「牽引」と「余韻」にも言える。「牽引」とは過去の手がかりである。「余韻」とは確かに存在したものの残滓と言えるが、必ずしも存在したものではない。

 嗅覚と観念について。T・Sエルオットは詩人のジョン・ダンについて「観念をバラの花の匂いの如く感じる」と述べている。ここから観念と匂いの相似性について考えてみる。ふたつの匂いが同じ強度をもって同時に存在することはない。観念もまた同じではないか。匂いは20秒くらいしか止まらない。匂いが送られてきてもすぐに鼻は慣れてしまい感じなくなってしまう。観念はどうだろうか。観念を虚空に20秒保持するのは難しいのではないか。入力を続けなければすぐなくなるものである。ワーキングメモリは数秒しか保たれない。

最後に、どちらも意識的にではなく「襲うもの」である。少なくとも重要なものであればそうであると言えるだろう。匂いも観念もごくわずかな因子によって生じて、方補論に還元され得ないものがある。匂いの記号学なるものがあってもいいのではないか。

世界の徴候化

 「徴候化」は対象世界にも、私の側にも生じる。対象の側に生じるときは簡単で、山で道に迷うときなどにかすかな足跡を辿って先人と同じ道を見つける。ごく詳細な徴候に注目して周囲の景色などは退行していく。もしもこの体験が私の中に生じると精神の危機となる。睡眠や食事などの重要な行いが二の次になる。徴候化は不安が原因で生じることであるが、不安がなくとも徴候化が起きることがある。それは、狩人の世界である。これは一種のセレンディピティであって方法論に還元されない。徴候優位となると些細な新規性が大きな意味をもつように体験世界が変化していく。

 わたしには私の意識に収まりきらないものがたくさんある。幼児記憶はどこに眠っているのだろうか。私の現前意識には属さないが、何らかの方法で現前してくる通路をもち、意識されたときに「私と無関係とはいえないもの」を仮に「メタ私」とした。それと同じく「私の対象意識が私との関連においてそれを対象することを拒めないもの」を「メタ世界」としてみた。

 「予感」と「徴候」は将来に関係している。それは世界を開く鍵ではあるが、どのような世界があるのかは分からない。身体の青春期的変化は単に、青春期の記号ではない。未知の世界への兆しである。少年は身体全体が予感化する。このように「予感」は「徴候」よりも自分に属している。

「余韻」と「牽引」も同様な関係がある。「牽引」は世界を開く鍵である。しかし「余韻」は世界であって、それをもたらすものは過去のものである。「予感」と「余韻」は共通感覚であって身体に近く、雰囲気である。これに対して「徴候」と「牽引」は対象的であり、吟味するべき分節性とディテイルをもつ。「予感」と「徴候」は差異によって認知される。些細な新規さが徴候であって、その名状できない雰囲気の変化が「予感」である。「予感」と「徴候」に生きる人は、現在よりも先の世界に生きているのである。

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