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他人のトゲをも愛してみたい

人にはそれぞれに幸せの形があり、たくさんの幸せがあり、それはとても素晴らしい世の中であると思う。最近、ネットでマツコ・デラックスの記事を見た。
その言葉がとても共感を得たのでその全文を記す。

マツコ「結婚、出産、お金などわかりやすい幸せの共通認識をインスタでアピールして、いいねをもらうことで自分は幸せなんだって自覚してる。これは、幸せかは他者に委ねてる状態ね。でも、私は他者を介在させずに喜びを得ることが幸せだと思うわ」

                               月曜から夜ふかしにて。

情報化の目まぐるしい現代においてはSNSなど、
ネットを通して簡単に他人が介入しやすくなった。私たちは、あの人に負けたくないという競争心であったり誰かを愛する気持ちであったりと、
喜怒哀楽様々な感情が他人に影響されやすい。

いや、されやすいと言うよりは常に他人に影響されて生きていると言える。

人間というのは本当に弱い生き物で、
他者の存在を介し自分の幸福をくらべてしまいやすく他者の存在に強い影響を受ける生き物なのだ



現代は絶対的な価値観が在しないニヒリズムの時代である。

哲学者ニーチェが言うところの神が死んだ時代だ。

それは私たち人間に「生きる意味などないのだ」と絶望へと誘い、生きる気力を奪いに来る。

しかし、そんな絶望の時代でもその絶望を肯定し人間は前を見て歩かなければならない。

そうした肯定は、私が現実という世界に触れる度に「それでも私は生きるのだ」という盲目的な生への意志を感じずにはいられなかった。

しかし、生きる意味などないというのに私が生きようとするのはなんなのだろう?


そうした問いかけが私に知識を要し、本を読み始めた。

そこにはたくさんの知恵や考えがあり、言葉があり、感情があり、世界があった。

本を通し、私は自分がこれまで何に影響を受けてそれを選んだのか?なぜそう思うようになったのか?等と

そういった自己の啓発的活動は現代においての必要性を強く感じた。

自分とはなんだろうか?
と自分に対する哲学を行っていくうちに
私の本質は他人への恐れにあると考えた。

それは
理解されないだろうという孤独の苦しみの恐れ
や人を愛せる自信が無いからと、愛そうと言い聞かせている自分の怪物がどうなるか分からない恐れであった。

私はひたすらに人が怖かったのだ。

他人の眼差しが私に向けられる度に奥底を覗かれるのが怖かった。

恐れて色んなものを着飾って行くうちに、いつからか私は裸になれなくなってしまったのだ。

ジャラジャラと着飾る私はどうも人より墓場に持っていくものが多いみたいだ。


さて、前述の通り
私たちは、幸せを掴むにあたって他者という存在が自身に様々な影響を与えている。

だが、他者という存在はヤマアラシのジレンマのように近づきすぎると自分が幸せになるつもりが傷つき、
他者がもたらす幸せは海水のように欲しても欲しても渇いてしまう。


故に自分の幸せとは誰がなすものでもなく委ねるでもなく、自分で手に入れなければならず、
それは他者の存在とを切り離さなければならない。

肉体の死を超えた苦悩が蔓延る現代。


個人の幸せの追求が許される多様性の時代の中に居ると視野の限界を突きつけられる。

そんな今を生きる私は「それでも」と、
他人のトゲをも愛してみたいと思うのだ。


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