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両親と話をしてみませんか?

母との記憶はあまりない。

幼い頃に母が他界して今まで、私と父と兄の男三人で暮らしていた。

幼い頃の私は好奇心旺盛で目を離した隙にどこかにいなくなってしまうほど手を焼いていたらしい。いやいや、今とはだいぶ違うじゃないか。
きっと迷子は家族の方だ、なんて思うタイプだったに違いない。

兄はそんな私とは打って変わり、静かなタイプだったそうだ。怒る時も怒鳴ったりしなかった。兄の威厳というやつだろうか。それは今も変わらないようだ。

さて、そんな私が母を覚えているのは私が幼少期、病気で手術する際の麻酔の独特な匂いと共に、目を閉じていく中で母が手を繋いでくれていたことと母が亡くなる前に救急車の中で兄と僕に兄弟仲良くするんだよと話しかけていたことぐらいであった。

私は生まれつき腎臓が悪いらしく3〜4歳頃までは病院の中で生活していた。
父は仕事で病院に来れないことが多く、母がずっと付き添ってくれていたようだ。

正直、本当に記憶がない、

とても大事な思い出なはずなのに。それが悔しい。

兄よりも近くにいたはずなのに、私は母についてわからないことが多かったのだ。



幼少期、兄は私に対し攻撃的であった。

今思えば、兄は母を独占されていたことにやきもちを焼いていたから、私にばかり気にかける母を見て幼ながら私に当たりが強かったのかも知れない。

そんな兄も少しずつ私と歩み寄ろうとしている。彼も一人の人間であり家族だ。会った時のぎこちなさはなかなか払えないけど私も彼を受け入れていきたいと思う。
生きている限り遅すぎるということはないのだから。

一方、私はというと、父に会えないことの方が多かったからか、そういった感情はわかなかった。

立場が違えば私も兄のように振る舞っていたかも知れない。そう思うと許せるし笑えてくる。僕も兄に悪いことしていたしどっちもどっちだ。

そんな兄弟を家に置いて父はよく会社の仲間と飲みに出かけることが多かった。
おかげで父の友人に毎回、父の体調の心配を聞かれる始末だ。

父は会社の人たちに信頼されていたことは周りの大人たちの反応で感じることができた。にしても僕たち兄弟を蔑ろにしすぎじゃないか?と思ってよく父のお酒のたまったお腹をペチペチ叩いたりなんかしていたことを思い出す。

そんなおかげか父の知り合いによく声をかけられた。よく色んな人が家に食べ物とかを持ってきてくれたりした。
道を歩けば父の知り合いに声をかけられながら過ごす学生時代は父の威厳を感じた。全部私たち兄弟を育てるためにやっていてくれたことだったのだと思う。

いや、正直言えば父は寂しかったのかも知れない。母のいない寂しさをどうにか子供に違う形で紛らわせたかったのかも知れない。

ある時、家には私と兄、父と母との写真がずっと飾られてあることを思い出した。

それは私が子供から家を出るまで今も変わらずずっと同じ場所にある。

父は私に母の生きた証をずっと見せてくれていたのかも知れない。それも私が愛されていた証を。父が母を愛していることを。

大人になった今、父も母も一人の人間であることがわかる。

私は二人のことが知りたくなった。どうして母と出会ったのかそれぞれの人生諸々今度父と会ったら聞いてみようと思う。

子と親ではなく一人の人間として。






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