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中学生を理解する3

話を聴くとは

 話を聴くには前提条件がある。それは、「話をしてもいいかな」と相手が思っている状態にあること。つまり、否定されず、批評されず、説得されずに話を聴いてもらえる状態や関係がすでに構築されている状態にあること。
 教員になって生徒指導を任されるようになった頃、難しい状況になることがしばしばだった。それは何かというと、複数から聞き取りをしたときに話が食い違うことがあるということだ。意図的に何かを隠している様子でもないのに、なぜこれほどまでに話が食い違うのか。
 叩かれた相手がいるのに、叩いていないという。○○を言われた、と相手が言っているのに、言っていないと言う。○○を隠されて、目撃者もいるのに、隠していないという。相手が被害を受けたと訴えている、状況的に事実があったことは明白なので、認めてもらうしかないのであるが、頑として認めない。ところが、状況の場面を詳細に再現していくと、確かに場面はあるのである。これは、どのように理解するべきなのだろうか。
 ひとつは言葉の定義が人によって違うことが考えられる。「叩く」という行為は、どのような状態を指すのかを実際に再現してみると、人によって違うことがわかる。叩いたというよりは、強く当たった。だから、叩いていない、のである。
 もうひとつは、本当に覚えていないのである。よく話を聴いていくと、相手から手を出されたとか、本人にとって許しがたいことを言われた等、強く感情を揺さぶられた言動があったことが多い。つまり、興奮状態にあって、覚えていないのである。どうして、そんなことくらいで、そんな言葉で、と思ってしまうこともあるが、その子にとってはとても辛いことだということが理解できるようになった。

本当の理由を話してもらう

 「先生はどちらの味方ですか」と強い口調で言われたことがある。一瞬、迷ったが、「生徒ですよ」と答えた。言わなかったが、味方という言葉が出るということは、「生徒は敵だ」とその人は感じているんだなと理解した。自分の仕事に対しての確信は揺らがなかったが、人に対しての確信が大きく揺らいだ。ごく一部の意見であることは分かっていたが、職場へ行く意欲は大きくそがれた。確かに、教員だからといって何を言われても、何が起こっても我慢しなければならないことはない。しかし、学校はだれのために存在して、教員はだれのために動くのか。
 子どもが、感情的になっていろいろやってしまうには、それ相応の理由があり、理由のない言動を人は起こさない。これは、わたしの確信である。親父に殴られるので、最初に言ったことは否定できない。絶対に秘密にしてほしかったことを、他の人にばらした、許せない。きっとあいつは、叩いてくるだろう、やられる前にダメージを与えなければならない。
 話したところで、怒られるだけだろうと思えば、理由は言えない。だから、本当の理由を話をしてもらうには、何を話しても大丈夫、否定されない、怒られない、説教されない、罰を与えられない、安心で安全な状態をつくらなければならない。しかし、否定し、怒り、説教し、罰を与えなければ反省を促すことはできないと信じる方は多い。これが、理由を話してもらえない主たる要因であると感じている。

物語を語ってもらう

 「本当のことを言ったらどうなるの」と聞いて、親父に殴られると答えられたら、何を聞いたらいいのか。ここは勇気を持って、その子が自分に起きた物語を話し、自分の気持ちに向き合えるように話を進めていく。何に恐怖や怒り、失望、いら立ち、悲しみを感じ、何が信じられなくなったたのか。そして、満たされなかった欲求、感情的に反応した理由は何なのか。語られた言葉を真実として受け取ることができれば、信頼関係を結ぶことができる。しかし、味方になってくれないと判断されれば、反抗され、距離を置かれたりするのは当然である。
 また、その子が大切だと考えている言葉「○○するべき」「○○が当たり前」「○○が大切」が出てきた時、強調した言葉や鍵となりそうな言葉が出てきた時は、最後まで誠実に話を聴く。人が一番大事たと考えている価値観が語られているからである。私たちは自分の価値観に従って生活し、人間関係や人生を選んでいく。だから、大切に受け取る。
 その子が見ている世界をそのまま受け取るとは、簡単な作業ではない。その考え方は、その行為は・・・と何か言いたくなる。社会で生きていく上では通用しないので、矯正してあげなくては・・・と善意で考える。しかし、彼らが見ているもの、聞いていることを全力で受け止めるのが先なのだ。
 自分は受け入れてもらったと感じて、人は次のステップに初めて進むことができる。人は感情的な生き物である。たとえ、正しいと分かっていても、感情が邪魔をしてしまう。だから、物語を語ってもらうのだ。役割として、教員はその子だけの物語を聞くのだ。感情の入り込む余地はない。だれのために学校は存在し、だれのために教員は動くのか。「教員は子どもの味方ですよ」と、躊躇なくこれからも言えるか。言えないようであれば、この職は辞さねばならないと、私は考える。
 学校は子どもの未来をつくる場所であり、教員は未来志向のコーチでありたいと願っています。

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