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人生の大転換、いざ海外へ

大分久しぶりの投稿になるため、どこから書けばいいのか迷う。
人生の大転換期を迎えるにあたって、その土台となったこの2年半の振り返りから始めようか。


社内起業:自己肯定感の高まり

最後に投稿したあの日から、無事に社内起業制度に受かり、副代表(という名の何でも屋)としてサービス開発を推進していた。


やっていたことを振り返ってみると、有難いことに、実にさまざまな経験をさせてもらっていた。代表に任せていた法人営業を除けば、ビジネス側をほぼほぼカバーしていたような気がする。

  • 市場調査・ユーザーヒアリング(からの対象ターゲット選定)

  • サービス企画(それっぽいデザインを作成し、開発へ繋げる)

  • 技術検証のデータの可視化(自力でGoogle Data Studioに挑戦)

  • バックオフィス(契約確認や稟議、購買、予算の管理)

  • 知財(自力で商標を取ったり、特許取得に向けて概要勉強)

  • 事業計画(人生初、なんちゃって財務三表を作る)

いきなりだが、素晴らしい時代に生まれたものだと思う。
初めての挑戦となる項目についても、本やYoutubeなどの無料講座から知識を得ることができたので、目をこすらせ「分からない!!!!」と半泣きになりながらも、一旦アウトプットを出すことが出来ていた。もちろん、優秀な代表やチームメンバーの力も借りながら、だ。

未知の領域でも、自分はなんとかやっていける。

次第に、自分の可塑性に対して肯定感が生まれてくるようになってきていた。過去のとりあえずなんとかなった成功体験が背中を押し、「まずは試してみるか、分からなかったら人に聞けばいいもの」と、未知への挑戦へのハードルが低くなった。

スタートアップ/ベンチャーを経験している人であれば、充分とは言えない人手の中で業務の幅が必然的に広くなるため、この道のりや感覚には共感してもらえるのではないだろうか。

そんな感じで、1~2年目まではがむしゃらに走れていた。

本業:初めてのプレスリリース

当然、本業の方もあった。

社内起業制度下での活動は、自分の稼働時間の30%程度を使っても許されるという「副業」的な位置づけであり、むしろ直近では本業の方に大部分のエネルギーと時間を費やしていた。

初めてプロジェクトマネージャーになり、自分で企画したものを開発側と要件を練り上げ、リリースに向けて各種の調整・手続きを行ってきた。
その中で、特許を出願したり(意外とカジュアルに取れるものだと知った)、人生初のプレスリリースを出すことが出来たりと、目に見える成果も出せるようになった。

その過程では、矢面から降りたいという甘えと、自分で進めなければいけないという責任感の間で揺らいでいた時期も多々あった。

体当たりの失敗の数々の中で、身に染みて分かったのは
プロダクトリリースに「順調」の二文字は決して起こりえないということ。

毎日のように問題が発生するし、万全と思っていても予想外の角度からトラブルの報告があがってくる。
(リリース前の大事な期間に、開発側の窓口担当が急遽コロナにかかり、自分がエンジニアチーム内であちこち聞きまわったのはいい経験だった…。)

1度説明したぐらいでは、相手が理解できるとは限らない。否、基本的にはこちらは話した気で終わっており、あちらも理解できていないまま「OK」と返答が来ていたりする。
繰り返し説明することには慣れたし、むしろ「分からないままにせず、聞いてくれてありがとう」という気持ちさえ持てるようになった。

また、内部での確認をお願いした相手に対し、「一体、誰に確認したのか」までも念押しで聞くなど、超おせっかいモードが丁度いいぐらいなのだ。

そうやって一緒に作り上げたプロダクトは、広報にプレスリリースを出してもらえ、自分もキャリア採用向けのインタビュー記事に載ることが出来た。

仕事を任せてもらえたことへの感謝と達成感でいっぱいになったと同時に、単に「仕事相手」という認識を超えて、普段のやり取りを通じて相手を深く知ることもできた。

これが自分一人で黙々とやったことであれば、そんなにも感動を得ることは無いのかもしれない。

やはり、仕事の本質は人との関わり、コミュニケーションなのだと思う。

海外駐在:ご縁はある日、突然に

仕事が少し落ち着いたと思った矢先、転職エージェントから求人紹介のメールが届いていた。

思わず、目をこすった。
シンガポール駐在が確約されたポジションだと言う。待遇も悪くない。

話がそれるが、自分のnoteをこれまで読んだことがある方であれば、どれだけ海外志向の強い人間かが良く分かるかと思う。

海外に行くたびに、そこでの強烈なパワーを吸収し、優秀な人々との差に苦しみ、そこから成長を遂げることが出来た。絶え間なく学ぶモチベーションと、そして人生の次の目標を得る場所でもあった。

ちなみに、コロナが本格化する以前にも、自力で中国への転職(現地採用)を試みたことがあった。当時、適切なタイミングではないと転職を諦めたことは、今では本当に英断であったと感じている。

話を戻そう。
シンガポールは、英語・中国語をも公用語とする都市国家で、アジアビジネス・APECの統括地点として様々な外資系企業が集まる。人生初めての出張先としても思い出深い場所だった。

20代最後のチャレンジとして、この機会に賭けてみたい。
とはいえ、今の環境に不満はなく、「受かったら本格的に考えれば良い」というカジュアルな気持ちで、受けてみた。

…が、なんと面接プロセスは、内定が出るまで実質6回。この長い道のりの中で、到底 軽い気持ちで受け続けることが出来ず、徐々に自分の人生について深く悩むようになってきていた。

20代後半になり、経験も勘所もついてくるなかで、「三十而立」(三十歳は、かつての孔子が言う、自分の人生の指針を確立する年)の山が迫ってくるように感じてきていた。

子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず。

孔子『論語』

日本でこつこつと貯めてきた経験、信用貯蓄が効果を発揮してきており、このままの調子で頑張れば、安泰な道が進めるのかもしれない。

一方で、シンガポールに行けば全てがゼロになる。破壊して、練り直した末に、自分のキャリアの幅が縦にも横にも広がるのかもしれない。

自分はどんな人生を歩みたいのか?
日本にせよ、海外にせよ、何をもって独り立ちするのか?
知的好奇心のために、今まで積み上げてきたものを捨てるのか?
家族も友人もいないその場所で、メンタルを保てるのか?

2か月間、心がジェットコースターのように乱高下していたし、午前と午後で考えが違っていることもあった。

その迷いは、「自分の直感を信じてもいいか?」という問いに尽きた。

心はシンガポールに行きたがっているのに対し、恵まれた環境に置かれている中で、行かない理由も十分にあった。理性的に考えれば、今の状況でやり切ったと思えるまで働く方が「失敗しない」のかもしれない。

有限の若さを、未知に賭ける

この投稿は、いわば自分への宣言になる。

1日1日と目減りする若さという資産を、未知に賭けたい。

新しい場所で、よき友・同僚・師に出会い、
世界言語の英語・中国語を、自分の考えを思う存分に伝える武器に仕上げ、
日本にいると到底 知りえなかった世界を存分に目に焼き付け、
その末に人生の進むべき道を見出したい。

たとえ失敗したとしても、その失敗を挽回できるなら、その失敗から教訓を得ることが出来るのであれば、この決断はきっと報われる。

……そう、理論上はそうなのだ。でも怖い。
心はもう方針を固めているのにもかかわらず、非常に怖いのだ。
この爆発した知的好奇心のせいで、人生を誤るのではないかと不安で眠れない夜もある。そして、これを書いている最中にも、少しだけ手が震える。

深呼吸。
開かれたパラレルワールドの前で、勇敢に扉の前に立つ自分を思い浮かべる。自分の意志で、強くドアノブを捻る。

なんてことは無い、あとは一歩踏み出すだけ。

クリスマスの明日、自分はオファーの承諾を出す。この決断は、人生へのギフトであることを願って…。

あとがき:Die With Zero

今回の決断に至るまで、色々な人と語り合い、様々な本を読んだ。

その中でも心に残る一冊が、この『DIE WITH ZERO 人生が豊かになりすぎる究極のルール』だ。

人生は経験の合計で、人生の最後に残るのは思い出である。

早くに経験すればするほど、その振り返りによって得られる幸福感・学び(本の中では”記憶の配当”と呼んでいる)が増してくる。

人生、やりたいことはいつか叶うと信じている。
問題は、その時期だ。
「いつでも海外にチャレンジできるかもしれないが、一番 体や頭が元気な今のうちに、思う存分に経験を培いたい」と背中を押してくれた一冊だった。

人生は学びと経験の連続。
また明日からも頑張りましょうね。

先輩方からアドバイスやサポートをいただけると新卒は飛び上がって喜びます。