期待する「信じる」から、任せる・委ねる「信じる」へ

私の名前は「信」だが、これまでも「特に信じているものはない」と述べてきた。「信じる」は、例えば「信じていたのに裏切られた」というフレーズに現れているように、「私の期待通りに動かなければ許さない」という意味になることがあるからだ。

こうした「信じる」は、ほぼほぼ「期待する」という言葉に置き換え可能。そして「期待」されると人間は気が重くなる。期待とは裏腹の行動を取りたくなる。アマノジャクになる。「期待」するという意味の「信じる」は、他者を縛り、気を重くしたり逆の行動を取りたくさせたりする。

他方、魅力を感じて仕方のない「信じる」がある。「3年B組金八先生」で、「裏切られても裏切られても、信じること、信じ切ってやること」というセリフが出てくる。私はこの言葉に大変打たれたし、今も心に残っている。この「信じる」はどうやら「期待」とは別物らしい。

「期待」の意味での「信じる」なら、期待を裏切られた時点で「信じられなくなった」といい、もう許せなくなるだろう。「信じる(期待する)というとてもありがたいプレゼントを与えてやったのに、その恩に報いないとは何たる裏切り者か」と、ひどく罵りたくなってしまう。

しかし金八先生のこの「信じる」は、裏切られることを前提にしている。期待通りに動かない、そうはならないことを当然視している。何かが根本的に違う。何が違うのだろう?

もしかしたら金八先生の「信じる」は、任せる・委ねるという意味ではなかろうか。失敗することも、期待通りにならないことも、そういうこともみんなひっくるめて委ねる。任せてしまう。それが「信じる」なのかもしれない。

「新インナーゲーム」に面白い話が載っている。カバの赤ちゃんに泳ぎ方を教えるのに、母親は水に落としてしまうのだという。当然、赤ちゃんは沈んだまま。20秒ほど経つと母親が鼻先で水面の上に持ち上げてやる。また沈める。またもう一度、同じタイミングで浮かべてやる。あとは放置して母親は向こうに行ってしまう。

すると、赤ちゃんカバは、20秒ほど経ったら水底を蹴って水面に鼻先を出すことを覚えてしまい、泳げるようになるのだという。母カバは、赤ちゃんカバが、わずかなアシストで泳ぎ方を覚えられると信じている(委ねる、任せる)のだろう。

私は息子とキャッチボールをするとき、あれこれ指示を出さないようにした。ついつい大人は、自分の知っている知識を伝え、まっすぐ投げられるコツを早く伝授してやろうとする。しかし私はそれですっかりスポーツが苦手になった自覚があった。何より球技全般が苦手な私が息子に教えられるはずがない。

私は、あさっての方向にボールを投げても何も言わずにボールを拾い、息子にボールを投げた。それを繰り返すうち、たまたま私に向けて真っ直ぐ飛んでくるボールがあると「わお!」と驚いた。私の投げたボールをたまたまキャッチできたときも「おお!」と驚いた。しかしうまくいかなくても私は気にせず、何も言わず、楽しくキャッチボールを続けた。

すると、息子はかなり早期にいい球を投げられるようになったし、キャッチも上手くなった。私は大人になるまでキャッチボールが苦手だったのに!ボールを顔面で受けるのが必ずあったのに!大違い!

「期待」の意味の「信じる」は、あれこれ注文をつけることが多い。こちらの気に入るように振る舞い、望ましい結果を出すようにと求める。少しでも違うとケチをつけたくなる。
「任せる・委ねる」の「信じる」は、結果を気にしないし、やり方も任せる。ただひたすら観察し、その様子を楽しむ形のように思う。

「新インナーゲーム」でガルウェイ氏は、自分の中でも「期待する」自分と「任せる」自分の違いが出てくると指摘している。「期待する」自分は、口やかましくあれこれと指示する。そうした自分を「セルフ1」(意識)と呼んでいる。無意識(セルフ2)は、その指示に従おうとして右往左往し、動きがぎこちなくなってしまう。

それに対して「任せる」信じ方の場合、セルフ1はあれこれ指示を出せずに、セルフ2に任せてしまう。セルフ2がそのうち上手くやってくれるよ、と信頼する。するとセルフ2はのびのびと試行錯誤を繰り返し、その失敗から学習し、やがて何をどうすればどうなるかを学び、どんどん修正をかけていく。結果的に、よろしくやれるようになってしまう。

不器用な人は、自分に過剰な期待をし、いやむしろ命令し、ああしろこうしろと指示命令で縛り、セルフ2の動きをぎこちなく、不器用なものにしてしまっている気がする。

器用な人は、うまくいくかどうかを考えても仕方ない、まあやってみるさ、という気楽なところから始め、うまくいくのもいかないのも興味深げに観察し、楽しむ。するとセルフ2は失敗からも膨大な学習をし、結果的にうまくいくコツをつかんでしまう。

これは、親や教師、上司など、人を指導する立場の人間も知っておいたほうがよいように思う。指導者はしばしば、口やかましいセルフ1のようになってしまう。期待し、命令し、たくさんの細かい指示で子どもや部下を縛り付けようとしてしまう。もちろん親切のつもりで。近道を教えてあげているつもりで。

しかしどうやら、「教える」という行為は、寸法の合わない鎧(ヨロイ)を着せるようなものらしい。外側にまとわりつく鎧のせいでうまく動けなくなり、ぎこちなくなる。着こなすことはかなり困難。不器用な人ほど、サイズの合わない鎧を着させられたようになってしまう。

しかし、教えず、自らの試行錯誤の中でどう動き、どう思考すればよいかを失敗からも学んでしまうようにすると、思考も体も柔軟にスムーズに動くようになる。どうやらセルフ1(意識)は不器用で能力がそんなに高くなく、セルフ2はいろんなことを同時に処理できる器用者らしい。

ところがセルフ2はとても素直なので、指示命令を聞いたらそれに従わねばならない気がしてしまう。もし指導者が指示命令してしまえば、子どもや部下のセルフ2はそれに縛られ、思考も動きもぎこちなくなってしまう。

指導者は、「任せる・委ねる」ことが大切なのだと思う。指導者が任せる・委ねる形で「信じる」ならば、子どもや部下は、「そうか、自分をそんなに疑ってかかる必要はないんだ、落ち着いてまずは試してみたらいいんだ」と思えるようになる。試した結果が成功であれ失敗であれ、落ち着いて観察するゆとりを持てるようになる。

落ち着いて観察し、その中で試行錯誤を楽しむことができれば、次々に発見が起きる。「ここをこうすればこうなるんだな」その学習が、次の試行錯誤に反映され、新しい情報を得、膨大な学習を可能にする。

指導者は、「任せる・委ねる」形の「信じる」ことが必要なのかもしれない。すると、「裏切られても裏切られても信じること、信じ切ってやること」が可能になり、子どもや部下は挑戦する勇気を持ち続け、やがてそれを克服する道を見つけてしまうのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?