創造性を奪う競争的資金

大型予算の研究プロジェクトになると、研究の進行を監督し、アドバイスする人を配置する。そのアドバイザーになったことがある。
そのプロジェクトは、早い時点で計画が破綻していた。そのためか、全員が頭真っ白になっていることがよくわかった。もうどうしたらよいかわからない。

申請書には開発不可能とされた技術をいかに開発するか、見事な実験計画が描かれていた。しかし早い段階で「考えていた方法では開発は無理」なことが明確になった。何せ、計画には、自分たちが最善と思った方法を列挙してある。それがうまくいかなかったら、もうそれ以上アイデアがなかった。

みなさんの発表を見てると、計画に書いた方法から大してはみ出てない実験ばかり。もはやうまくいく方法を探すというより、三年間ももらえてしまう予算に見合うだけの実験はしましたよ、という言い訳をするための実験ばかり。「こんなにたくさん実験しましたけどダメでした」と、許してもらうための領収書。

PDCAや競争的資金は創造的研究に全然向かないことがわかったのは、この経験があったから。計画(P)がうまく行かないのがわかったら計画を変更するのが常套手段。しかし競争的資金の計画書は、その研究者が知力の限りを尽くして書いたもの。アイデアが出払っている。それ以上の計画が出てこない。

で、もうどうしたらよいかわからないので、頭真っ白になって、もはやうまくいかないことが明らかな実験計画に従い続けて、もはやなんの意味もない結果を出し続けていた。もちろん予算はムダになる。何より、その研究者たちのエネルギーが三年間、ムダに使われることになる。

偶然にも私は、不可能とされていたその技術を開発していた。そのためプロジェクトの推進者に懇願され、途中で参加、プロジェクトを成功裏に終わらせることになったのだけど。
私は、その技術を交付金という、毎年決まって配分されるわずかな研究費で開発を済ませていた。なんか釈然としなかった。

私も同じテーマで競争的資金を応募していたのだけど、当たらなかった。当時、無名だったのもある。
プロジェクトリーダーの先生は学会で賞ももらう有名人。だから競争的資金も当たっていた。しかしその先生は開発できていなかったし、他方、私は開発できていた。こりゃなんじゃらほい。

なぜ私はその技術を開発できたのか。今思えば、計画を立てねばならない競争的資金で研究しなかったからだと思う。その先生のプロジェクトメンバーは、実験計画を大きく変更することができていなかった。全く違う研究をしたらダメだから。こういう研究します、でもらった予算だから。

私は、何を研究しても構わない予算、計画なんて大して立てなくてもよい予算、交付金で研究していた。だから、この方法はうまくいかないな、とわかったらさっさと見切りをつけて、なんでもかんでも新しい実験法を試した。うまくやろうなんて思ってない。うまくいくとも思ってない。ともかく。

やったことないことをやると、意外な結果が出るから楽しくて、思いついた実験があればどんどん試した。その中で、「あれ?これうまくいきそう?」というのが見つかり、道が開けた。うまくやろう、結果を出そうとしなかったから、大胆にいろんな実験ができた。他方。

大型の予算をもらった研究者は、その予算をムダにしちゃいけないというプレッシャーを受ける。それでいて、あまりにも関係のない研究にお金を使っちゃダメだという縛りもある。自縄自縛に陥って、もはやうまくいかないことが明白な計画通りに研究を進めてしまっていた。

国はもう20年以上、巨額の競争的資金のプロジェクトを立ち上げて創造的な研究をさせようとしてるけど、競争的資金では創造的研究は無理がある。自分の書いた計画に思考が呪縛され、発想が貧困になってしまうから。マジメな人ほどそうなってしまう。計画にないことやっちゃいけないと思うから。

研究プロジェクトを立て続けに当ててる人は、「仕込み」の研究を影でやってる。競争的資金をもらってから開発したのでは、うまくいかない時に頭真っ白になってにっちもさっちもいかなくなるから、右も左もわからない研究を一部行い、芽が出たテーマを次のプロジェクトのテーマにしてる。

ところがマジメな研究者は、プロジェクトが始まる前に仕込みの研究をやっておらず、申請書に書いてある通り、研究費が当たってから初めて研究に着手する。やってみたらうまくいかない。そして頭真っ白。
競争的資金の仕組みは、マジメな研究者を不必要に不器用にしてしまう。創造性を奪う。

交付金なら、マジメな研究者でも興味の赴くまま、大胆な実験を行うことが可能になる。計画通りの実験をしなければ、なんていう縛りがないから、発想も自由度を増す。
日本は、競争的資金ばかりにして交付金を減らした結果、「計画の呪縛」に陥ってしまったように思う。

上の人は、若い研究者に研究計画を出させたがる。しかしそのせいで、マジメな研究者の思考を計画で縛り、創造性を奪ってしまっている。
上の人が計画を出させたがるのは、「自分がゴーサインを出した研究がうまくいったら、オレの功績」というのを味わいたいからかもしれない。しかし。

創造的な研究をやらせたかったら、計画は立てさせない方がよい。それよりは、時折研究の様子をコーヒーても飲みながら聞き、まだやったことのない実験は何かを尋ね、「じゃ、それをやってみてよ。今度結果を聞かせてね」と、ともかくやったことのない実験をするようにだけ促した方がよいと思う。

やったことのない実験をすれば、必ず意外な結果にぶち当たる。意外ということは、新しい現象、未知の法則がそこにあるということ。またコーヒーでも飲みながら「そこ、面白いね。もしそこを掘り下げるなら、どんな実験が考えられるの?」と、さらなる工夫を促す。

創造的研究を促すなら、上の人はメンターになった気分で接したらよいのに、と思う。ところが最近は、受刑者がまじめに働いてるかを監督する牢番みたいな感じになってる。単純作業をやってるならまだわからない訳ではないけど、創造的研究にそれは全然向いてない。

どうも日本はここ20年程、誤ったリーダーシップが様々な分野に及んで、仕組みが機能しなくなってる。競争的資金もしかり。
創造的研究では、計画なんかやめて、メンター配置した方がマシな気がする。あ、もちろん研究費は交付金で。

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