「名選手、必ずしも名監督ならず」はなぜ起きる?

「名選手、必ずしも名監督ならず」という。
名選手になったこともない私がこれを論じる資格あるのかという問題はあるけれど、どんな人も誰かの指導者(先輩くらいにせよ)になる可能性はあるわけで、名監督とまでいかなくてもなんとなくそれに近づける、凡人ならではのテクを考えてみたい。

ある人から、名選手にも2種類いるのではないか、と指摘を受けた。身体的能力に恵まれて、その圧倒的なパワーで名選手になった人は、自分がなぜ強くなったのか言語化する習慣がないし、たとえ言語化していてもそれだけ恵まれた肉体を持ってない人には適用できない。これでは指導力は難しい、という。

かたや、身体的には恵まれているとは言えず、ひたすら技術を磨き、自分の状態を常に言語化する習慣を持っているタイプの名選手は、言語化できてるからこそ指導者になっても適切に後進を指導できるのでは?という仮説。これは興味深い仮説ではあるけれど、それでも名監督ならずの事例も多い。

私達の身近にも、優秀なパフォーマンスを見せた部下が昇進してみると、ハッスルする割に空回りするケースがある。まさに名選手、名監督ならず。なぜこんなことが起きるのだろう?観察していると、選手(部下)だったときの「クセ」が抜けてないことが多いように思う。

選手や部下は、指導者から評価されたいと思って行動する。だから自分の技術や知識をアピールし、それを監督や上司に認めてもらおうとする。指導者はやる気を引き出すため、その意欲を評価し、ほめることが多い。だから、自分の能力を誇り、アピールするのが習慣になってしまうらしい。

そして自分が指導する側になってもなお、自分の能力や技術を後輩や部下にアピールしてしまう。これをやると不思議なことに、部下たちはパフォーマンスを発揮しなくなる。恐らくは「上司のゴルフ」にお付き合いする気分にさせてしまうからだろう。

上司のゴルフにお付き合いする場合、「どうだ、俺の腕前は!」と誇る上司よりもよい成績を上げるわけにいかない、と忖度が働く。そんなことで上司の機嫌を損ねては大変だからだ。だから部下たちは「とてもとても、上司様の腕前にはかないません」と、あえてパフォーマンスを落とす。

これと同じことが起きるのではないか。上司が、かつての自分の働きぶりを自慢してる場合、部下はどう思うかというと、「俺の方が圧倒的にすごい、と上司に思わせていた方が平和」と計算する。「すごいですねえ、私達はまだまだ」と小さくなった方がやり過ごしやすいと判断するように思う。

実際、こうした自慢型上司は、自分を圧倒するような部下のパフォーマンスに危機感を抱き、足を引っ張ったり意地悪したり、あるいはケチをつけたりする。誰よりも優秀だということを誇りにしていた名選手は、いつまでも自分がプレイヤーだった気持ちを忘れられず、力自慢を続けてしまう。

部下である間は、働くこと、頑張ることが自分の仕事だった。しかし上司になると、部下に頑張ってもらうこと、仕事してもらうことが職務になる。部下と張り合うのは上司の仕事ではない。部下のパフォーマンスを引き出すのが上司の仕事となる。

なのに、部下時代のクセが抜けないと、自分の能力自慢に余念がなく、それが部下のパフォーマンスを大きく下げる要因になっていることに気がつかない。むしろ「俺みたいになれ、俺に憧れろ」と、俺アピールすることが部下の意欲を高めると信じてそのような指導をしてしまう。

しかもこうした指導を煽る上司本や記事が多い。「部下がついていきたいと思う憧れのリーダーに」「圧倒的に優れたリーダーとして尊敬される存在に!」みたいに、自分を認めてほしいリーダーの心理をくすぐり、指導者にそぐわない行動パターンに誘導してしまっている。

しかし、上司や監督という立場は、自分を認めてもらうとする立場ではなく、部下を認める立場。部下の頃の成功体験の行動パターンを改めなければならないのに、それを継続してしまっている人が多いように思う。もしかしたら名選手が名監督になれないのも、そのあたりに原因があるのではないか。

もう一つ、必ずしもうまくいかないけど世間に広く信じられてる指導法が「ほめる」指導法。もちろん、ほめる指導のすべてが悪いわけではない。ただ、「ほめる」というのはどうも解像度の悪い言葉で、「おだてる」と区別のつきにくいところがある。このために。

ほめればほめるほどいい気になり、傲慢になり、進歩しなくなることがある。こうなるのは、結果をほめると起きやすい。「こんなことができてすごいね!」とか、「こんな結果を出すなんてすごいね!」と、結果をほめると「おだてる」のと同じになり、部下を傲慢な振る舞いに導きやすい。

でも実は、傲慢そうに見えて、実は怯えているのではないか、という気がする。結果や成果をほめられると、「次も同じ成果が出せなかったらどうしよう」と不安になる。そうそうよい成績など出し続けることは難しいと誰もが考える。そこで結果をほめられた言葉を言質にとり、

「そうだ、俺は本気出せばすごいんだ、でも今はやる気しないからやらないだけ」という論理に逃げ込む。こうすれば過去の栄光で、もしかしたら同じ成果は二度と出せないかもしれない、か弱き自分を守れる。傲慢という硬い殻を身にまとって、傷つきやすい内部の柔らかな肉を守ろうとする。

結果をほめる、おだてると、部下が傲慢な態度になりやすいのは、同じ結果はもう出せないかもしれないという不安を抱いた部下の防御反応なのかもしれない。結果をほめる、おだてるという言動には、そうした副作用があるらしい。

「結果をほめるからいけないんだ、プロセスをほめることが大切だ」というビジネス本や記事が多い。しかしこれもまだ解像度が悪い気がする。ハツカネズミがクルマをクルクル回して「ふう、一仕事終えたぜ」と言っても何にもならない。しかしプロセスをほめると、ムダな空回りの頑張りを促すことも。

で、「ほめる」指導がことごとくうまくいかないものだから、もういいや、と開き直って、叱り飛ばす指導に戻す場合が少なくない。しかしこれも副作用が大きい。部下は怒鳴りつけられるのが嫌だから、指示待ち人間になってしまうことが多い。

自分で考えて行動したら「なんでそんな勝手なことをしたんだ!あらかじめ報告しろ!指示を仰げ!」と叱られる。それで指示を仰いだら「そのくらい自分で考えろ!」と叱られる。矛盾。ダブルスタンダード。こうなると、部下は自分で考えても考えなくても叱られるので、一番面倒の少ない道を選ぶ。

それが指示待ち人間。どうせ自分で考えて行動してもしなくても結局叱られるなら、指示通りにだけ動いてやり過ごそうとする。指示がないことはやらない、とすることで静かなボイコットをして復讐する。こうなると、上司は事細かく指示を出さねば動かず、組織としてきしんでしまう。

私は、「工夫、発見、挑戦に驚き、面白がる」のがよいのではないか、と考えている。優れた指導者を観察していると、部下が工夫すること、新しい発見をすること、新しい挑戦に果敢に取り組む姿に驚きの声を上げ、それを面白がっているように思う。

結果を問わず、結果に驚くのではなく、「面白い工夫をしてるね。また新しい工夫を見つけたら教えてよ」「面白い発見をしたね。また新しい発見があったら教えてよ」「いい挑戦だねえ!どんどんやってみてよ」と、工夫、発見、挑戦に驚き、面白がるとどんどんそれらが促されるらしい。

工夫、発見、挑戦に驚く指導法の場合、傲慢になったりいい気になってることが難しい。工夫も発見も挑戦も、どんどん過去のものになるから。新しい工夫、新しい発見、新しい挑戦に価値があっても、過去のものはもう過ぎ去ったものだから。だから、常に未来志向を促すことになる。

特に「工夫」に着目することは、「プロセス」という、よくわからない解像度の悪い言葉よりもはっきりしている気がする。常に新しい工夫を重ねる人は、最初はうまくいかなくても必ず解決の道を見つける。工夫は、打開策を見つけようとする不断の努力のことだから。

工夫し、発見し、挑戦し続ける部下は、必ず成長する。結果も出るようになる。何より、楽しい。工夫の挙げ句に道を切り拓けたという快感。自分の力で発見したという喜び。挑戦をやめなかった自分の勇気と誇り。それらが意欲をますますかきたてる。

上司は、部下の工夫や発見、挑戦に驚いていれば、面白がれば、部下はますますそれらにのめり込み、解決の糸口を自ら見つけ、結果も出していく。しかも能力をどんどん開発する。チームとしても盛り上がる。優れた指導者は、部下の工夫、発見、挑戦に驚き、面白がっているように思う。

なのに名選手は、しばしば自分がほめられてきたものだから、自分がほめられようとするクセが抜けきらない。指導という名を借りて、部下に自分のパフォーマンス自慢をし、部下に「すごいですね」とほめてもらい、自己承認欲求を満たすパターンに陥りがちなのではないか。

指導する側になったら、これを逆転させる必要がある。部下に認めてもらうのではなく、部下を認める立場になっているのだから。そして圧倒的な能力で部下を黙らせるのではなく、部下の工夫や発見、挑戦に驚き、面白がることで、部下のパフォーマンスを向上させるのが仕事になる。

名選手は、承認されて嬉しかった成功体験を抱えているだけに、そのクセが抜けず、部下に認めてもらおうとする行動パターンが現れやすいのかもしれない。立場が変わったのだから、部下の時代のクセから脱却しなければならないことに、いかに気づくか。そこがカギになるのかもしれない。

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