仲良くなるための道徳、攻撃的な道徳

金曜夜は、私が勝手にWeb飲み会と呼んでる勉強会に参加。その日のテーマは「道徳」(マジメ)。道徳について話し合う中で、思ったことを書き連ねてみる。
文化人類学の本なんか読んでると、初めて出会う民族の人とどうやって仲良くなるか、が重要だとわかる。互いの文化や慣習が異なるから、手探り。

道徳は、「見知らぬ人と仲良くなるために試行錯誤の中で見つけたノウハウやテクニック」と考えるのが、いちばん基礎的な気がする。異文化交流をすると、道徳の最も根源的な姿が見えてくる気がする。
ところが。同一集団の中でいると、「道徳」が独自の存在感を示し始める。人を裁く攻撃道具に。

「道徳に照らせば、あなたの行動は不道徳である」と責められる。場合によっては、人の存在そのものを不道徳とまで言い切り、排除する。道徳は、集団の同一性を維持するための道具になり果て、人を攻撃するための武器になってしまう。

私は、道徳は「人と仲良くなるために試行錯誤の中で見つけたノウハウやテクニック」である、という出発点を忘れないようにしたいと思う。人を断罪し、攻撃するための道具になり果てた「道徳」は、なんか違う気がする。
仲良くなるための道徳と、攻撃的道徳。この二種類がありそう。

攻撃的道徳は、「期待」なのかもしれない。相手にこう行動してほしい、こう振る舞ってほしい、という「期待」を、道徳を盾にとって正当化し、強制力のあるものにしようという企み。それに従わない者は、自分への不服従を「道徳への罪」として罰し、「あいつはシカトしていいよ」と触れ回る。

イジメはしばしば、道徳や正義の衣をまとう。漫画「六三四の剣」に、クラスから浮いてる女の子が登場。授業中に勝手にトイレに行こうとし、担任に呼び止められ、理由を尋ねられると「ションベン」と答え、クラスの女の子たちから、そんなはしたない言い方をするなんて、と非難されるシーンがある。

人としてこう振る舞うべし、という「道徳」から外れる行為、振る舞いをすると、それを正すという名目で攻撃する。排除する。イジメは、道徳や正義に従うことを強制するところから生まれることが多いような気がする。

モンテーニュ「随想録」でこんなエピソードが。
王様が手鼻をかんだのを見て、欧州人が「汚い」と言った。すると王様は「鼻水ごときに高級な絹のハンカチを使うお前たちの方がどうかしてる」と切り返した。「道徳」はしばしば、文化によって異なる。

もう一つ。
ある民族は、人が死ぬと遺族が遺体を食べる風習を持っていた。欧州人が「なんて野蛮な」と言うので、どんな風に弔うのか、聞いてみた。その上で返事するには「大切な家族の肉をウジ虫に食べさせてるお前たちの方がどうかしてる」と。

異文化に出会ったとき、私たちは、自分の所属する集団が共有しているルール(攻撃的道徳、同調圧力的道徳)を相手に強制できないことに気がつく。相手と仲良くするには、試行錯誤の中で仲良くなるためのノウハウ、テクニックを手探りして見つけていくより他ないことに思い至る。

これは、私たちがついつい「同一集団」と見なしがちな集団の中でも、取り戻した方がよいように思う。違いを「攻撃的道徳」で難詰する、のではなく、違いを面白がり、自分の思い込みを考え直すきっかけが得られたと喜び、手探りの中で仲良くする道を見つけ出す。これが「道徳」なのではないか。

違いを排除するのではなく、違いを面白がる。それが「仲良くなるための道徳」の出発点になるのでは。時に、生理的に受けつけないことがあるかも。そのとき、無理する必要はない。しかし集団の中には、自分の嫌いなそれを面白がる人がいるはず。それを非難するのは思いとどまってほしい。

包摂的(インクルーシブ)な社会は、自分の嫌いなものでも、他の人がそうでもないなら変に感覚を共有しろと同調圧力をかけるのではなく、違いを面白がることを容認する。人には好き嫌いがあることを容認しつつ、集団の誰かが面白がることで包容力を獲得する。

道徳とは、「違いのある人間同士が、試行錯誤の中で仲良くなるために手探りで見いだしたノウハウ・テクニック」であると考えたら、様々なことが比較的円滑に進むようになるのではないか。異質なものも包摂する社会は強靭で活気が出るように思う。

私たちは道徳を「枠組み」としてとらえがち。しかしどうやら、「枠組み」化した途端に「攻撃的道徳」になりがちな気がする。人と対するとき、そんな枠組みは忘れてよいように思う。道徳は枠組みではなく、異文化を持つ相手と試行錯誤の中で仲良くなるためのノウハウ・テクニックと考えるようにしたい。

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