自己、自己、自己、自己、意識しすぎ

この記事で自己肯定感の話題に疑問を呈したけど、私はそのほかの自己効力感とか自己省察とか自己の確立とか、自己自己自己自己してるのに前から違和感がある。
私はソクラテスの「汝自身を知れ」とばかり、自己省察を繰り返した結果、「私はタマネギである。むいてもむいても何もない」と感じた。
https://note.com/shinshinohara/n/nc2258df2a312?s=09

それは「自己」だけの話だけではない。たとえば鉄をどうやって理解するか。触るとヒンヤリ、夏日に当たるとヤケドしそう、刀、トンカチ、クギ、溶けると赤く光る、さびやすい、銀色、赤錆、電気を通す、磁石にくっつく。鉄を理解するには、鉄以外との出会いを観察するしかない。

鉄を取り巻く鉄以外のものとの出会い方を見て、おぼろげに私たちは「鉄とはこんなものだ」をおおよそ理解する。概念(おおむねの意味)とはよく言ったもの。鉄以外との関係性を考えずに、純粋に鉄だけを知ろうとしてもワケわからない。鉄を知るには、鉄以外との関係性を見る以外に他はない。

自己の把握もそう。自己のみを純粋に把握しようたってムリ。他者との出会い、関係性の中で、こんなことを言われたら嬉しい、こんな風に扱われると腹が立つのだな、疲れると眠くなるんだな、のように、周辺の出来事との出会いから、自分というもののクセを読み取るしかない。他者のない自己認識、ムリ。

ガーゲン「関係から始まる」を読んで、ああ、やっぱり、と思った。ガーゲン氏の指摘通り、「自己」の過剰意識はデカルトからだと思う。デカルトは「方法序説」で、固定観念を否定して否定し尽くした結果、残るのは、考える自分を否定しようとしてもそれを考える自分がいることの発見だった。

いわゆる「我思う故に我あり」という有名な言葉が、「自己」というものを肥大化して意識するようになったきっかけだったと思う。思想の再構築をこの後始めるのだけど、この絶対確実に思われる「自己」を基礎にして思想を再構築することになるので、どうしても「自己」はやたら重要視されてしまう。

実際、デカルト以後の哲学・思想家は、やがて「神」を考えずに「自己」を基礎にして哲学するようになってしまう。考えてはいるんだけど、私みたいな外からの人間が読むと「神について言及しとかんと無神論者だと思われても困るしね」という言い訳のようにも読めることがある。

他者との関係性がなくても純粋な「自己」が存在しうる、という考え(誤解?)を手助けしたのは、プラトンのイデア論かもしれない。プラトンは、馬にも速い馬、遅い馬、黒い馬、白い馬、いろんな個性の馬がいるけれど、そうした個性を取り除いて残るのが純粋な「馬のイデア」だと考えた。

プラトンのイデア論とデカルトの自己の発見とが組み合わさって、「自己」があたかもイデアのように他者との関係性なしでも存在しうるものとして妙にクローズアップされているのだと思う。
しかし「自己」はあくまで他者との出会い、関係性の中でしか把握できない。しかもおぼろげにしか。ああ、こういう場面では自分は怒りっぽい人間なんだな、とか。

私がデカルトを読んだのは高校生の頃。そりゃもう苦しんだ苦しんだ。デカルトの理論は非常に説得力があって、「自己」を基礎にして確実絶対に正しい思想を構築しようと目論んでいたのだけど、この世に絶対正しいものを求めるのに無理がある、と気づくのに、10年くらいかかった。

他方、イギリスは伝統的に経験論というのがある。デカルトに毒されていた私は、これまたイイカゲンな、と最初思っていた。経験は、まさにデカルトが「方法序説」の中で、イイカゲンなものの代表として真っ先に否定されていたものじゃないか、と。でも同時になんだか興味もそそられていた。

結果的に見れば、イギリス流の経験論はとても威力があった。デカルト風の絶対確実な思考で作られた旧来型コンピューターは、あらかじめ教えられた答えしか答えられなかったが、深層学習という、あっちかこっちか確率で考えるね、というちょっとイイカゲンな方法が、プロ囲碁棋士を圧倒するように。

絶対確実、絶対的な正しさを追い求める傾向のあるデカルト流より、「あっちかこっちかまだよくわからんから、もう少し経験重ねるね」というやり方、そして意見の出し方も「こっちの方が確率的に有利な気がする」というイイカゲンな深層学習の方が、人工知能に新たな地平を築いたのは面白い。

昔のコンピューターは、デカルト流に、絶対確実な知識をあらかじめ搭載しようとしてきた。それでは限界があった。
深層学習の場合は、コンピューターの中身は「空っぽ」にしておいて、ネコの写真を見るという「他者との出会い」を膨大に学ばせることによって、「ネコ」の認識に成功した。

今から思えば、デカルトが発見した「自己」も、深層学習と同様、赤ん坊の頃からたくさんの他者と出会い、その中で言葉を身につけていって初めておぼろげに生まれてきたもの。もし赤ん坊の頃から他者との接触を断たれていたら、自己を認識することは不可能だろう。

というワケで、デカルトに始まる「自己」の過剰意識は、そろそろやめにしてもいいん違うかな、と思う。「自己」はあくまで他者との関係性の中でしか認識できないもの、他者が外側を埋めてくれるから輪郭が浮き彫りになるもの、という認識に改めていいのではないかな、と思う。

さて、拙著でもやむなく「自己」を使ってる表現がある。自己効力感。自分が何かを成し遂げた感、と理解したらよいと思う。すでに存在する言葉の中で、最も伝えたいことに近いからこの言葉を採用して、最初の上司本や次の子育て本でも紹介している。
たとえば離乳食の時。

離乳食を始めた当初は素直に食べてくれていたのに、やがて運動能力が高まってくると、スプーンの方をちっとも向いてくれない。あっちの方角ばかり顔を背けるようになる。らちがあかないので見当つけてスプーンを突っ込んでみると、口が閉じていて床に食べ物ボロボロ。そんな経験、多いと思う。

私はどうしたらよいか考え、実験してみることに。スプーンを子どもから少し離れたところに空中停止(ホバリング)。よそ見ばかりしていた赤ちゃん、一向にスプーンが来ないのでふと姿勢を元に戻すと、正面少し離れたところにスプーンが。
さあ、どうぞ、とばかりに口を開ける。でもここでくじけない。

もしそこでスプーンを持って行ったら、また安心してよそ見を始める。ホバリング続行。すると、赤ちゃんはスプーンが近づかないことに気づく。けれど自分から首を伸ばして届かなくもないことに気がつくと、首を伸ばし始める。待ってるこちらは「頑張れ!」と声援。

パクつけたとき、「おお」と小さく賛嘆の声を上げると、赤ちゃん、やったった感。次のスプーンもホバリングすると、赤ちゃんは「ギリギリ届く位置のスプーンにパクつく」というゲームに夢中になり、よそ見をしなくなる。これは、自分から働きかけたとき、前向きな結果が出るから楽しいのだと思う。

この心理を表現するのに、既存の言葉では自己効力感が最も近しいと思って、説明でもそれを書いたのだけど、「『自己』がジャマだな」と感じていた。そこで、能動的に働きかけたからこそ何らかの感触が得られた、という時の感覚を「能動感」と呼んで、勝手に造語したりした。

赤ちゃんは、能動的に働きかけて得られる発見を楽しんでいる。親の方から必死に追いかけて離乳食を食べさせる場合、顔をどっちに背けていてもスプーンが来るので能動性がない。受動的。受動的なものは当たり前で面白くない。だから能動的によそ見して新しい発見をしようとする。

しかし離乳食ホバリング法だと、「さあ、この距離はいけるか?新記録なるか?」などと楽しむ場合、自分の能力の限界を試すという能動的な動きになって楽しい。「今度はこの高さならどうだ!」ゲームになると、「能動感」が得られて、やりがいがある。

「能動感」という言葉は私の造語だし、適切かどうか怪しいけども、赤ちゃんの離乳食ホバリングでの達成感を説明するにはこれで十分だと考えている。自己効力感みたいな、「自己」をわざわざ出してくる必要を感じない。

欧米のように「神対自己」のように、神様がいつも自分を見てる、という感覚の文化圏の場合、どうしても「自己」が出てきてしまう面があるのかもしれない。けれど日本のような多神教的文化圏だと、八百万の神の中に紛れてしまいそうな自分でしかない。自己をそんなに強く認識できないし、確立も難しい。

それよりは、仮説的思考で仮説を立てては試し、その結果を踏まえて仮説を修正し、また試し、という、深層学習がやってる方法の方が適している気がする。そのためには、むいてもむいても何もないタマネギな自分を確立しようとするより、他者とのネットワークを試行錯誤で構築した方がよいのかも。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?