知識や能力は差別してよい理由にならない・・・焚書坑儒を招かないために

私達は能力主義の時代に生きて、能力さえあれば豊かな生活を送り、高い社会的地位につくのを当たり前だと考えている。しかし本当に当たり前なのだろうか?マイケル・サンデル著「実力も運のうち」は、能力を理由にして能力のないとされる人たちを見下す構造に危うさがあると指摘している。

中国の文化大革命では、知識人が吊し上げに遭い、ときに殺された。いくら毛沢東がそそのかしたとは言え、なぜあれほどまでに知識人という知識人をコケにする風潮が中国全土を覆ったのだろうか?あまりそういう見方はされていないが、能力あるとされる者への憎しみが民衆に蓄積していたからではないか。

ポル・ポトが支配したカンボジアでも、知識人という知識人が虐殺された。学校の教師も。このためにカンボジアは知識を再構築することが難しくなり、長きにわたる停滞を味わった。
しかしポル・ポトがそそのかしたとはいえ、なぜそれほどまでに知識人を憎んだのか?皆殺しにするほどまでに。

今後、調べていきたいと考えているが、知識人を憎む空気がそれまでに蓄積していたならではないか、という仮説を補助線として引くと、理解しやすい。能力のある者が能力がないとされる人たちを見下すのを当然とする社会風潮に、憤りを蓄積していたからではないか。

中国を統一した王朝、秦では、焚書坑儒を実行している。知識人を生き埋めにし、本という本を焼き捨てた。このとき失われた書籍と知識は非常に多いとされる。いくら国の司令だとはいえ、人を生き埋めにするという行為を実践できたのはなぜなのか。能力主義への深い恨みが蓄積していたからではないか。

アフガニスタンをタリバンが再度支配することになったのも、もしかしたら、アメリカの持ち込んだのは、民主主義の皮を被った能力主義への憤りがあるのかもしれない。能力が高いとされる人間が、現地に多い農家ではとても望めないような豊かな生活を送ることへの憤りが。

すでにアメリカや日本でも、能力主義への不満、恨みは蓄積しているように思う。
トランプ大統領が現れ、知識人から信頼されている新聞やニュースを「フェイクだ」と断言したとき、アメリカ国民は喝采を送った。知識人や能力をカサにきた人間への恨み、不信感がそうさせたのだろう。

日本でも、日本学術会議と菅前首相がもめた際、少なからずの国民が学術会議を批判した。学問ができるからって、高い社会的地位にふんぞり返っている知識人や能力主義者への深い恨みが背景にあるのではないか、という気がしてならない。

能力があれば豊かな生活と社会的地位を手に入れ、そうでない人たちを暗に侮辱して構わない、という現代の「常識」は、放置しておいてよいものか?私は、そうした構造を放置する限り、知識や能力への憎しみが蓄積し、やがて、世界の歴史で何度となく現れた焚書坑儒が起きる恐れがあるように思う。

戦前戦後にあれだけ共産主義が伸びた背景に、生まれや育ち、能力主義などで人を平気で差別する社会への憤りがエネルギーになったと考えると、理解しやすい。
能力さえあれば豊かな生活を送り、高い社会的地位を誇るのは当然なのが?少なくともそれを当然視することは、焚書坑儒を自ら招くことになる。

知識や能力が大切なのは当然だ。しかしそれを持つものが持たざるものを置き去りにして自分だけが豊かになることは当然視してよいことだろうか?もしそれをすれば、やがて知識や能力に対する深い恨み、怨念を蓄積し、知識や能力を否定したくなる気持ちを育ててしまうのではないか。

ケインズは、共産主義よりはマイルドな形で、知識や能力への恨みを緩和する社会構築を目指した。知識や能力を持つものがある程度豊かになるのは構わない。ただし富を独り占めするのは許さず、富を社会に還元し、再配分することを前提条件にした。

これならば、知識のある者、能力のある者が活躍すれば活躍するほど社会全体が豊かになる。戦後昭和の日本で、8割以上の人々が自分を中流家庭だと考え、社会への不満をあまり持たずにすむ社会を実現できたのは、知識ある者、能力のある者が社会に還元することを怠らなかったからにほかならない。

世界をうらやましがらせたアメリカの生活も、実はケインズ政策がもたらしたものだ。
戦前のアメリカはやはり能力主義が強く、弱肉強食だった。チャップリンの映画でも、工場に勤める労働者の貧しい暮らしが描かれている。これが大きく変化したのは、フォードが労働者に高い給料を支払い始めてから。

ケインズ政策もあり、アメリカの労働者は豊かになり始めた。ごく普通の家庭でも冷蔵庫やクーラーのある家に住み、自動車を乗り回した。アメリカのホームドラマを見た日本人は、アメリカの一般家庭の豊かさに度肝を抜かれた。この豊かさは、やがて共産主義のソ連もうらやましがらせた。

ケインズ政策は、知識や能力の大切さは否定せず、それを持つものがある程度豊かになることも否定しない代わり、社会に還元することを求めるものだった。知識や能力の効果をある意味、否定することになりがちな共産主義(豊かになることを許さない)が低迷する中、ケインズ政策は国全体を豊かにした。

現代にケインズ政策をそのまま再現することには無理がある。しかし知識や能力を自分の豊かさのためにのみ使うことを是とする社会の歪さを見直すのに、ケインズ政策は参考になるように思う。自らの豊かさのためにしか知識や能力を使わない現在の社会システムでは、焚書坑儒をやがて招きかねない。

知識や能力は、社会全体の豊かさ、知識や能力を十分発揮し得ない人たちの豊かさ、さらには地球環境の豊かさにも役立つ形で発揮される必要がある。今は、知識や能力を持つ人間に集中的に報われ過ぎている。それか知識や能力への憎しみを育てていることに気づく必要があるだろう。

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