親のかける「呪い」について

親が知らず知らずにかけてしまう「呪い」について、私も十分に言語化できていないことに気がついたので、ちょっと考えてみる。
昔の親は、子どもに評価を下すことを何とも思っていなかったので、結果的に「呪い」にかかる人は少なくなかったように思う。たとえば。

「お前はどんくさい」「足が遅い」「何を着ても似合わない」「お前に才能はない」などなど。親から言われたネガティブ発言は、他人から言われたものと違って救いがない。自分を生んだ親が言うので、否定が難しい「呪い」になってしまう。

で、「どんくさい」と言われた人は「ええそうですよ、どうせどんくさいですよ」とすね、開き直り、どんくささを改善する気を失う。努力すること、工夫することを放棄してしまう。足の遅い人は走ることが嫌いになり、才能がないと言われた人は才能を開発することを放棄する。

ところで、「呪い」はネガティブ発言に限らない、というご指摘を頂いた。その通りだと思う。尾木直樹さん(尾木ママ)が「しくじり先生」という番組に出演した時のエピソード。お嬢さんは、体に良くない甘いお菓子を食べず、くだらないテレビ番組を見ない自慢のお嬢さんだったという。ところが。

お嬢さんが成人したある日、部屋をのぞくと、くだらないバラエティー番組を見ながらねそべって、体に悪そうなお菓子を食べ散らかしていたという。それを父親に見られた娘は涙を流して「だって、お父さんがそう望んでいたから、必死に我慢していたの」。

アダルトチルドレンという言葉がある。親が子どもに良い子を期待すると、子どもは必死になってその期待に応えようとし、自分の本来持っている欲求を押さえつけて、親の望む子供像に近づこうとする。こうした子どもを、大人びた子供、アダルトチルドレンと呼ぶ。しかし。

本音を覆い隠し、親の期待に沿うことばかりをした結果、思春期あたりで自分を見失い、破壊衝動に見舞われることがある。思春期を無事(?)に過ぎても、大人になってから自分を見失い、自分の本心が分からなくなり、苦しむ人もいる。

つまり、ネガティブな言葉であろうと、「あなたはお菓子も食べず、くだらないテレビ番組も見ず、良い子だね」という誉め言葉のようなポジティブな言葉でも、「呪い」になりうる。どちらも、自分が本当にやってみたいことを見失うという意味では、共通。

では、どんな時に「呪い」になるのだろうか。どうやら「存在」を決めつけた時に「呪い」になるらしい。その言葉がネガティブであろうと、ポジティブであろうと。
「あなたはどんくさい(存在である)」、「あなたはくだらないテレビ番組を見ない(存在である)」というと、呪いになるらしい。

結果をほめてはいけない、と言われるのも、存在を決めつけた呪いに聞こえかねないからだろう。「100点!えらいねえ!」とほめると、90点ではほめてもらえないんだな、ほめてもらえる存在から脱落するんだな、そうは言わないまでも、良い成績を続けなければ存在価値が失われるんだ、という呪いに。

結果をほめられても、一応その時はうれしいのだけれど、意識できるかどうかは別として、無意識のうちに不安になるらしい。「良い子だとほめるということは、良い子でなくなった時、自分は存在価値を失うのだろうか」と。この点について、里子制度で興味深い現象がある。

テレビ番組では、ちょうど3人目の里子として女の子を施設から預かったところから経過を紹介されていたのだけれど。不幸な生い立ちを持っている子どもの場合、赤ちゃん返りするのだという。トイレもきちんとできていたのにおもらししたり、箸を使えたのに食べさせてもらいたがったり。

里親のその人によると、赤ちゃんみたいに何もできない状態、うんちやおしっこの世話をすることになっても、ご飯を自分で食べられなくても、この人は決して自分を見捨てない、親であることをやめない、という絶対的確信を得るため、赤ちゃん返りするのだという。

施設にいるときはトイレも食事も問題なく一人でできて、ご挨拶もできて、ニコニコしている「良い子」だったのが、トイレも食事もできなくなり、ひどくかみついたり、暴れたり。その試練を乗り越えて初めて、親子になれるのだという。融通の利かないあなたでも決して見捨てない、と確信を得るまで。

子どもが親に欲するのは、問答無用にこの世に生きていてよい、という全肯定なのかもしれない。ところが「勉強ができてすばらしい」とか「毎日お手伝いしてすばらしい」と親が期待する通りに子どもがふるまうことを期待すると、その存在でなくなった時、生きていてはいけないような不安を抱えかねない。

「お前はどんくさい(存在である)」というネガティブな言葉は、「お前がそんなのでなければもっと愛してやれるのに」というため息に聞こえて、絶望感を感じるのかもしれない。存在の決めつけは、ポジティブであろうとネガティブであろうと、呪いになるのかもしれない。

結果をほめる、あるいは罵ることは、子どもの存在そのものを決めつけ、呪いにかけることになりかねない。
では、近年よく推奨されている「結果ではなく過程をほめる」はどうだろうか。私は「ほめる」という言葉にまだ引っ掛かりを覚える。

ほめる、という言葉は、親の期待通りだった、という意味合いで使われることが多い。だから、たとえ過程をほめたのだとしても、親の期待通りに動いたことになるし、「次もよろしくね」という期待が見え隠れする。結局これだと、結果をほめるのと大差ない印象を子どもに与えるように思う。

私はそのため、「ほめる」ではなく「驚く」ことの方を推奨している。「ほめる」は、親が事前に期待している行為をした、という印象。「驚く」は、親が事前に想定していなかったことが起きた、という感じ。子どもは、親が「驚く」のがことのほか好きなように思う。

昨日、子どもがおふとんを敷いてくれたからほめた、だから今日も敷いてくれると期待したら、やってくれなかった。すると親は失望するだろう。そのガックリは子どもにも伝わる。しかし布団を敷くのが当たり前になると、子どもはつらくなる。重荷に感じる。だからよけいにやらなくなる。

昨日はお布団を敷いてくれて驚いた。でも今日もやってくれるとは思わない。うん、やっぱりしかなかったか。子どもはムラっ気だからそんなもん、そんなもん。
と思っていたら、今日はやってくれた!驚き!ありがとう!こうして驚くと、子どもはしてやったり、とうれしくなる。

子どもに一切期待しない。子どもはムラっ気があり、今日はやっても明日はやらないのが当たり前。だから期待しない。しかし期待しないからこそ、「たまたま」やったときに驚く。あるいは、「たまたま」しなかったことに驚く。すると、子どもは「たまたま」を「しばしば」に、やがて「いつも」に変える。

離乳食を始めたばかりの赤ちゃんだった娘は、ゴジラだった。ただ食べるだけは退屈。そこで大人も食事するテーブルに移動し、ハイハイし、机の上のものを下に落として大きな音を立てるという遊びを発見し、毎日のようにゴジラ化した。やめろー!と言っても止まらない。そこで。

たまたまゴジラをやめ、自分の席に戻った時、家族全員で拍手した。「おお!戻った!」すると娘はみんなが驚いたことに驚き、機嫌よく席に座り続けた。
その後、ゴジラ化しようとしたとき、「おお?」と言って見つめると、ニヤッと笑って席に戻り、家族が拍手して驚くのを期待するように。

食べ終わったお皿を台所に持って行ってくれたのに驚き、けれどそう毎日毎日やってもらえるわけはない、と期待せずにいると、「持って行ってくれるの!ありがとう!」と驚ける。そのうち、こちらが毎回驚いていると「こんなの当たり前だよ」と言ってこちらを驚かしたりする。行動が定着する。

無理しなくていいよ、しんどい時はやめていいんだよ、といたわると、不思議にムキになってやろうとする。子どもはアマノジャク。ではどうしてアマノジャクかというと、親を驚かせたいのだと思う。子どもは、親を驚かせたい生き物なのだと思う。

「期待しない」とは、そう毎日毎日続くはずがない、ムラのあるのが当たり前、と期待値を低く低くすること。なんならゼロにすること。それはちょうど赤ちゃんが立ち始めた時、そうはいってもその日からキッチリ確実に立てるようになるわけではないと親も考えざるを得ないのと同じように。

「期待しない」というフレーズを聞くと、「心理的に見捨てる」という意味に取る人が少なくない。たとえば宿題をしようとしない子どもに「期待しない」と心に決めた親が、たまたま子どもが宿題した時に「おや、珍しい、雪でも降るかしら」と憎まれ口たたきたくなる時の心理。

「期待しない」を「どうせお前なんか」と決めつけ、心理的に見捨てることと同じ意味でとらえると、間違ってしまう。それは「存在を決めつける」呪いと同じ。「どうせお前なんか…という存在」という呪い。だから、「期待しない」というのは、「お前に絶望している」という意味ではない。

だからどうも、「期待しない」という言葉は勘違いを生みやすいので、別の言葉で置き換える必要があるかもしれない。私は「祈り」が近いかな、と思う。子どもはムラっ気のあるもの、成長も行きつ戻りつがあるもの。それでもいいから、少しずつ成長していきますように、という祈り。

「赤毛のアン」のマシューは、この「祈り」の理想的な姿のように思う。マシューはアンにあれこれ注文を付けることは一切しない。アンが楽しそうなら嬉しくなり、悲しそうならオロオロし、なんとかその悲しみが早く癒されますように、と祈るばかりの不器用な存在。でも。

アンがみなしごという不幸な生い立ちを持ちながら、あれほど明るく育つことができたのは、マシューのおかげのような気がする。マシューが、アンが嬉しそうなら嬉しく、悲しそうならオロオロする、そんな人でいてくれたから、アンは自分の成長でマシューを驚かせたい、と心から願ったのだと思う。

「赤毛のアン」は小説だから架空の話。それでも心打つのは、長く愛されているのは、心の変遷をみごとに描いているからだと思う。かえって伝記など事実に基づいていると言われるものほど、事実を歪曲して理想的な人間に仕立てることも多いので、むしろ虚飾がある。小説の方が真に迫ることがある。

私はマシューのような気持で、子どもに接することができたらなあ、と思う。アニメ「赤毛のアン」では、パイプをくゆらしながら、アンの話すことに黙って耳を傾け、ニコニコ楽しそうなマシューの姿が描かれている。そして、時折驚く。理想的な姿のように思う。

私の中で、理想的な子どもへの接し方は、赤ちゃんに接する母親の接し方。言葉も話せず、立つこともできない赤ちゃんに、何も教えることはできない。果たして言葉を話せるのか、立つことができるのか、と不安な気持ちがある。ただひたすら、祈るしかない。そしてある日。

片言の言葉を発した時、あるいは立ち上がった時、驚く。いま、言葉を話したよね!立ったよね!と。その驚く様子を、たぶん赤ちゃんは覚えている。自分が工夫を重ね、何かできるようになったとき、成長した時、親は手をたたいて驚き、喜んでくれる、と。

子どもが「ねえ、見て見て!」と親に頻繁に声をかけるのは、自分が工夫したこと、発見したこと、成長したことに、親に驚いてほしいから。親はいつでも驚けるように、期待せず、しかし見捨てるのではなく、祈るような気持ちで見守り、「まさか」と驚く。それが好循環を生むように思う。

「驚く」は、親の想定外の現象だから、子どもがどの方向に進むのかを前もってコントロールしていない。だから、「期待する」「ほめる」と違って、子どもは自分で選び取った道を進んでいるんだ、という能動感(自分が能動的に動き、何らかの変化を呼び起こせたと感じ取る)が味わえる。

なぜ私が「呪い」を嫌うのか。それは、子どもの成長を止めてしまうから。「足が遅い」と言われた子どもは、以後、運動全般を嫌うようになる。本当は体を動かすと楽しいのに、「足が遅い」という呪いの言葉が脳内で繰り返し響くので、運動自体を嫌い、やめてしまう。

昔の親が平気でこうした「呪い」をかけていた理由の一つに、他の子どもとの比較があるように思う。そして、どうしたわけか1番になることにこだわる時代でもあった。2番じゃだめだ、1番になれ、と。努力して1番になるのを求めるのが当たり前の時代があった。

しかし1番がいるということは、クラスの他の子どもはみんな脱落者だということになる。そしてその「脱落者」という烙印を押された子どもの少なからずが、1番になれなかった勉強や運動が嫌いになり、その方面で努力や工夫をしなくなり、成長を止めてしまいかねない。とてももったいない話。

1番でも2番でもクラスで最下位でもなんでもいい。学ぶことを楽しむこと、体を動かすのを楽しむこと、それを子ども全員が味わえていたら、子どもたちはそれぞれの速度で成長することをやめないだろう。楽しいからずっと続ける。工夫する。だから成長し続ける。

いかに子どもたちが自分の工夫、発見、成長を楽しめるか。そうした環境をいかに整えるか。家庭でも学校でも。すると、優等生だけが努力を続け能力を伸ばすという小さな効果ではなく、全員が楽しみながら工夫を重ね、成長するという大きな効果が出てくるように思う。そちらの方が楽しいのでは。

「なんだ、お前は1番ではないのか」という発想が、「呪い」の原因なのかもしれない。人と比較し、人よりもこの点で優れている、という優越感を味わうために「呪い」をかけ、子どもの楽しみ(工夫したり成長したりする楽しみ)を奪うのは、なんかおかしい気がする。

一番でなくてもいい、なんならオンリーワンでなくてもいい。自ら工夫し、発見し、成長することを楽しめばよい。「おお!こんな方法があったのか!」「お!これができるようになった!」自分の知らなかったこと、できなかったことが「知る」「できる」に変わった瞬間は楽しい。

子どもが工夫し、発見し、成長することを楽しめるように。親は、あるいは教師は、子どもがそうした状態になるよう、アシストするだけでよいのだと思う。そのアシストこそが、「驚く」なのではないか。子どもが能動的に動き、工夫、発見、成長するように仕向ける。

子どもが能動的に工夫、発見、成長することを楽しめるようになれば、あとは親や先生が見ていないところでも、一人で楽しめるようになる。しかしどうせなら多くの人に驚いてほしいから、もちろん驚きを共有しようとする。一人でも成長し、みんなと成長する。

子どもをいかに能動的な存在にできるか。工夫・発見・成長を能動的に楽しめるか。そのためにどうやって親は「驚く」か。「驚く」ためにはどんなマインドセットが必要か。「期待せず、祈る」にはどうしたらよいか。
そんなことを考えている。

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