ピアノ教室に通うようになるとイヤになるのはなぜなのか?

YouMeさんは幼稚園の先生になりたくて、小学校4,5年生からピアノを習いだしたのだという。最初にやらされたのは、バイエルの練習曲と運指(指の運び方の基本)。つまらなくて、目標がなかったらやめていただろうという。それに、幼稚園の先生になるのにバイエルはいらないんじゃ?とも。

私の親戚や、塾に来ていた子どもたちの話を聞いていても、ピアノ教室に行くまではピアノを弾くのが大好きで、自分から通いたいと言い出したのに、ピアノ教室に通い始めて間もなく「やめたい」と言い、親に言われて我慢して続けたものの、結局やめたという子どもが実に多い。

YouMeさんはその時の反省があってか、結婚してから習字を始めるにあたり、「名前と住所さえなんとなくきれいに書ければいい、という習字の塾を」というムチャな目標を立て、その条件を飲んでくれる場所を探したら、中国茶の先生もやっている一風変わったところを見つけた。

そこの先生は、お寺の「今日の一言」を代筆するような達筆の方だったけれど、YouMeさんに「うまく見えるコツ」を伝授してくれた。でも習字の時間に中国茶をふるまってくれたりそのままおしゃべりにふけったりと、実に不真面目な、でも面白い時間であったらしい。けれど。

当初の目的通り、名前と住所がきれいに見える書き方を習っただけなのに、全体に字が上手になった。個展の記帳はYouMeさんに書いてもらうようになった。習字でも基本が大切とされるけれど、名前と住所をきれいに書くために必要な基本だけ習う、という通常とは逆の順番でも、字は上手くなるんだな。

私は中学から剣道を始めた。いわずもがな、剣道も基礎が大切。剣道の基礎練習は素振り。腕立て伏せなどの基礎体力。けれど、基礎ばかりではつまらない。で、試合をやって見たくて仕方ない、というタイミングで、その剣道部では、試合をやらせてくれた。まあ、初心者だからひどいもの。

先輩たちは大きく正しく、なのに目にもとまらぬ速さで竹刀を振る。私たち初心者は振っているんだか揺れてるんだか分からないような振り方。せっかく面に当たっても、太刀筋が曲がっている(竹刀の横で叩いてる)ので一本にならなかったり。悔しい。この次の試合こそは!と思うから。

基礎練習にも身が入った。試合に勝ちたくて。先輩みたいに格好良く竹刀を振れるようになりたくて。もし試合をたまにさせてもらうことなく、ひたすら基礎練習ばかりだったとしたら、私だけでなく他の同級生たちも続かなかっただろう。

さて、冒頭のピアノ教室に話を戻すと、多くのピアノ教室で教え方が硬直的なのではないか、という気がする。あれだけたくさんの子どもたちがピアノにあこがれて教室に入るのに、すぐ「やめたい」と言い出す子どもたちのあまりな多さ。子どもたちの心理に分け入った指導ができているのか、やや疑問。

娘(年長)は今、おもちゃのピアノを熱心に弾いている。一本指で。楽譜は読めないが、おもちゃに付属のは、鍵盤に貼ってあるマークが付されていて、それを見ながら「チューリップ」とか「真っ赤な鼻のトナカイ」とか、3時間くらい集中して弾いたりしていた。

そしたら近頃は、鍵盤のどれがどの程度の音なのか見当がつくようになってきたらしく、楽譜を見ず、頭の中の音階にあわせて音を探し、鍵盤を押す練習を始めたらしい。時折間違うが、毎日やっている間にだんだんと正確になってきた。勝手に音感が育っていく感じ。

YouMeさんも私も、気を付けているのは「教えない」こと。教えるとやる気をそぐ、というのを、私たち自身、習い事をやったりしたときに痛感している。しかし、自分で試行錯誤して発見することは非常に楽しいし、熱中する。だから勝手に上手くなる。娘もいま、その真っ最中であるらしい。

テレビなんかで、海外の駅に置いてあるピアノを、道行く人が奏でていく様子を紹介する番組がある。インタビューすると、ピアノを習ったことがなく、独学で、しかも耳コピで練習したという人の多いこと、多いこと。それでも私みたいな素人から見れば十分うまい。楽しそう。これでええやん。

私は、基礎をすっぽかしていきなり弾きたいものを弾こうとして構わないのでは、と思う。当然、うまく弾けない。弾けないから、弾くにはどうしたらいいだろうと本人の中に意欲がわき、基礎から積み上げてうまくなろう、という動機が湧いてから基礎を始めたらよいのでは?と思う。

子どもに大工仕事をやらせてみると、まあ最初はひどいもの。釘は曲がる、ノコギリは切り口がゆがんでいく。うまくいかないことを痛感する。すると、子どもは放っておいても「この材木、勝手に使っていい?」「この釘使っていい?」と言い出し、黙々と練習に励むようになる。

釘をまっすぐ打つ、という単純作業の中に、子どもは小宇宙を発見する。トンカチがどういう軌道だったら釘は曲がるのか、あるいはまっすぐ進むのか。まっすぐ入っていた釘が途中から曲がった場合はどう軌道修正すればよいか。試行錯誤を延々と続ける。大人が何も言わなくても、実に熱心に。

ノコギリも、線の通りまっすぐ切れなかったことが悔しくて、端材の材木をひたすら切りまくる。足で押さえていたはずの材木が斜めになったり、ガタンと踏み落としたり。切れ口がゆがんでノコギリが進まなくなったり。試行錯誤の中で失敗を重ね、成功は狭い道(隘路)であることに気がつく。

その狭い道筋が、失敗という外周を埋めることで輪郭がはっきり見えてくる。その道筋をたどるために、ひたすらトンカチを振り、ノコギリを引く。その姿は、基礎練習をひたすら熱意をもって重ねているように見える。けれどその前に、うまくやりたくてもできなかった失敗が先にある。

私は、「基礎」というのは実は、超応用だと思う。ピアノの運指は恐らく、どんな難しい曲でも弾けることが経験上見抜かれた、実に洗練されたものとして浮上した方法なのだろう。だから、先人たちが苦労して見つけたその方法をさっさとマスターしたほうが上達が早いよ、ということなのだろう。

でもそれ、つまんないな、とも思う。どうせなら、教えてもらうより自分で発見したい。それが子どもに限らず、大人でも思うことではなかろうか。誰からも教えてもらわずにこのコツを自分で発見した、という喜び、誰もが憶えあるはず。それってすごく嬉しいし、決して忘れない。

子どもに「(再)発見の喜び」を経験してもらった方が熱意が湧くのではないだろうか。ここを弾こうと思ったら今までのやり方ではうまくいかない、どうしたらいい?と考え、様々な試行錯誤を重ね、人が弾いているのを見て技を盗む。教えられずに自分でつかみたい、という欲求は、子どもは強い。

三角形の内角の和は180度であると教えるのは簡単。けれど、教える側がラクであっても、子どもたちにとってそれを覚えるのが楽とは限らない。180度であることがなかなか覚えられない子どもには、「分度器で測ってみ」と言っていた。「あ、180度か」とすぐいうが、私は揺さぶる。

「え?ほんま?三角形もいろいろやから、たまにはそうじゃないのもあるんじゃない?」と言うと、子どもは動揺し、いろんな三角形の角度を測り、180度でない三角形がないか、確認しようとする。で、さんざんやった結果、「先生、だましたな!どの三角形も180度やないか!」と悔しそう。

「ええ~?ほんま~?たまにはあるんじゃない?」となおも揺さぶると、「もうだまされへん!あ!教科書にも書いてあったやないか!うそつき!」と笑って私に文句言う。こうした体験があると、もう二度と忘れない。そして、教科書にあることは一応検証し、確認するクセがつく。そして忘れなくなる。

大人は親切心で先回りし、わざわざ三角形の内角の和をいちいち測って確認しなくても、どれもこれも180度なんだよ、と教えたがる。けれどそれでは、子どもは発見の楽しみがない。ただ暗記するというつまらない作業だけになってしまい、感動がないからなかなか覚えられない。

学習は原則、「発見の楽しみ」があった方がよいように思う。教えてもらわずに、自分で発見できるかどうか試してみる。それはまるで、推理小説の犯人は誰か、手持ちの証拠から推理するときと同じように。証拠を一つ積み上げては、推理がより深まるように。

ピアノ教室ももしかしたら、子どもが弾きたい曲をまず練習することから始めたらよいのではないか。ギターなんかは、基礎だとかなんとか言わずに、弾きたい曲を弾こうとするうち、基礎的なこともマスターし、いろんな局に挑戦してうまくなっていく。ピアノもこの順番で構わないのでは?と思う。

ピアノの先生は当然ながらピアノがうまい。いろんな曲を弾けるようになるには運指が大切だ、ということを、経験上痛感したから運指を教えるのだろう。けれど、これは私の仮説なのだけれど、運指の大切さを発見した喜びが、その先生にはあったのでは。先生はそれを味わったけれど、子どもたちは?

釘をまっすぐ打ちたかったのに打てなかったという悔しさ、ノコギリをまっすぐ引きたかったのにできなかったという悔しさ、それがあってからだと、釘打ち、ノコギリ引き、という単純作業に小宇宙を発見し、のめり込めるが、もし金づちをまっすぐ振る基礎練習ばかりさせられたら、嫌気がさすだろう。

子どもたちが意欲的に取り組むには、どういう順番で取り組むとよいのか、ピアノ教室もそろそろ、再研究してみてはどうだろう。これだけ「やめたい」という子どもが多いところを見ると、先生が先回りしすぎな気がする。その結果、子どもから意欲を奪っている気がするのだが、どうだろうか。

ちょいとふざけたマンガだけれど、これ、大変面白い。成功したピアニストは、思いやりがあって親切で温かい先生に最初に指導してもらっていたという。ピアノを弾くのが楽しくて仕方ない、というのが最初にあって、だから基礎練習も苦にならなかった、という順番。
https://yakb.net/man/263.html

バイエルとやらの練習曲は、ピアノを知らない私は、YouMeさんから聞くまで知らなかった。初心者の子どもが弾きたいと思える曲とは思えない。それよりはネコふんじゃったとか、クリスマスソングとか、チューリップとか、身近な曲の方が楽しいのでは。うまく弾けたらごっつ嬉しい。

そうした嬉しさ、楽しさ、もっとうまく弾きたい、という熱意が十分湧いてから、この練習曲を弾けるようになったらもっとうまくなるよ、と言われたら、子どもたちも熱心に取り組むかも。指導の順番でミスがあるような気がする。

音楽は「楽」とあるように、本来楽しいものだと思う。それをつらくてつまらないものにしてしまうのは、実に残念でならない。能力の高い人が上司になると部下を指示待ちにし、意欲を奪うように、名選手が監督になるとチームが弱くなったりすることがあるように、ピアノ教室もそうした面があるかも。

どうやら、私が最近思うには、指導者に向いているのは、その人自身の能力が高いことではなく、部下や子どもの「意欲」を引き出すことが巧みな人なのでは、という気がしている。楽しければ意欲がわくから、つまり、楽しめるようにデザインできるかどうかがカギ。

もし、ピアノをうまく弾けるようにする教室ではなく、ピアノを弾くのを楽しめる教室があるのだとしたら、娘を通わせてもいいかな、と思うけれど、「次来るまでにこれをやっておくように」と宿題を出し、楽しくなくする教室なら、やめとこうと思う。どうせなら、何でも楽しみたいから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?