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『コルクラボマンガ専科最終講義で思った事』①

以前のnoteでも書いたのだが、今年の5月から半年間コルクラボマンガ専科という漫画の教室に通って来た。先日(10月25日)そのマンガ専科の最終講義があった。とても心に残るものだった。


講義の前に参加者達が最終課題の32頁のマンガを描いて提出しており、その漫画に対して講師陣の3人(編集者の佐渡島さん、マンガの学校をされているごとうさん、文章表現・コミュニケーションインストラクターの山田ズーニーさん)がそれぞれ講評するという授業だった。


講義の詳しい内容は別の機会に書く事として、その講義で自分が感じたある事について書きたいと思う。


それは、講師陣のマンガの魅力を引き出す力に感激したという事なのである。特に私が感動したのは山田ズーニーさんの講評。全作品に対し、丁寧なフィードバックを書き、山田さんが感動した部分を詳細に伝えてくれていた。さらに、作者自身も気づいていないその作品ならではの良さや魅力、主題というものを言語化してくれる作業をしてくれいたのだ。


私は、今回のマンガ専科の講義で繰り返し言われていた「言語化する」という事に少し乗れないような気がしていた。なんでもかんでも言語化すればいいというものではないだろうと、言語化にトライしてみる前に思ってしまっていた。その現象のもつ複雑さを言語化することで、人間の解釈のレベルに落とし込んでしまうことはどこかに危うさもあるのではないのかと思っていた。


しかし、ズーニーさんの講評を聞いて「言語化することの大切さ」を納得できた。言語化することでその作品のあいまいだった主題やテーマ、本質が見えてくる。まずそれを見る・見せることが大切なのだ。複雑さを複雑さのままに観ずるというのは、まず「言語化する努力をした」後の話なのではないか。

で、そのズーニーさんの姿勢に僕はすごく感動した。教育者だと思った。


これはきちんと準備をして、その生徒の人格としっかり向き合おう、人生を尊重しようという山田さんの姿勢の上に成り立つ尊いことだと感じたのだ。


英語でいう「教育」education の語源は、ラテン語の educatio [引き出す](※1)なのは有名な話なのだが、まさに山田さんは、生徒自身も気づいていないようなその生徒の持つ可能性、またその生徒の良さ、伸ばすべきところを引き出すことをひたすらにされていた!その姿が、まるで敏腕外科医師が手術をつぎつぎするかのように、「あんたの良さはここ!アンタの良さはここ!」と引っ張り出しているように見えたのだ。まさに引き出すプロ!その姿に僕はカッコいいと思ったし。こんな人になりたいとなぜか思っていたのだ。

素直に自分はやっぱり『教育者』というあり方にすごく憧れを抱いているし、そうありたいのだなと思ったのだ。だれかと伴走する人、その人の良さを伝えてあげる人、意見を言ってあげる鏡のような人。そういう事をやっぱり僕もやりたいなと思った。


自分は、中学・高校に勤めていた。そして職場としての中学や高校の現実に嫌気がさして辞めてしまった。その仕事内容自体は尊いし、大事なことなのに、教職という仕事そのものが嫌いになってしまったと思っていた。

しかし、やはりそうではなかった。僕は「教師になんかならなきゃよかった」と思った事も何度もあった。しかし、本当はやはり教師になったのにも何か意味があったのだと思う。それは僕がやっぱり教育という物にどうしようもない魅力を感じているからなのだ。そのためにだったらどんな苦労もいとわないと言いたいようなものを感じているのだ。だからこそ、教育業界に自然と近づいていったのだろう。


僕の方向性は、一人で何かを作る人だと思っていたし、それが合っているとも思っていた。でも、願いの方向性としてはやはり「誰かを応援する」ということなのだなと気づかされた。


これはもちろん山田さんだけに言えることではない。佐渡島さんも、後藤さんも教育者だと思った。

こういう気付きも得られた最終講義だったのだ。

(終)


【註釈】

(※1)教える (teaching)は、「伝達」(transmission)という見方がよく知られている。こちらはeducationとは違って「あることを知っている人が、知らない人にその情報を伝達する」というニュアンスを持つ言葉である。

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