行ってきました! 今回は能は金春流の「嵐山」と「船弁慶」、狂言は「伯母ヶ酒」。 春(年始から3月にかけて)と、秋(9月から11月にかけて)は能の上演が集中します。1月だけでも、すでに能楽堂に足を運ぶのは3回目(笑)。でも、名古屋での能の上演は、東京や大阪に比べて回数が少ないので、できるだけ行きたいのです。 金春さんには、贔屓にしている若手の能楽師さんがいるので楽しみでした。主に奈良で活躍されている金春飛翔(ひかる)さんと、金春嘉織(かおる)さんご兄弟。2年前にお二人
小牧山薪能へ行って参りました。 小牧城の石垣の発掘調査が進み、リニューアルオープン。城への登り道も綺麗に、楽に(笑)整備されています。周囲には何にもないので、犬山城下の賑わいには負けておりますが、広い公園が広がっています。そこを使って、祭の時は賑やかに飾り付けされるのです。今年は、コロナのせいで中断されていた薪能も開催されました!始まる前に、パラパラと雨が降ってきていましたが、なんとか最後まで無事に上演されました。 今回の番組は、観世さんによる、舞囃子『箙』、和泉流
現在、小牧市中央図書館のイベントスペースで開催されている展覧会に行って参りました。 HPもとても素敵です。 どこかで見た絵だな…と思っていたら、雑誌やご本の表紙絵で何回か拝見しているのでした。昔、梨木香歩さんのご本をよく読んだので、『村田エフェンディ滞土録』の表紙の方か!と気が付きました。 ご本の表紙はとてもカラフルで、しかもパステル調の温かい雰囲気なのですが、今回の展示は『黒い森』というテーマ。モノクロームで描かれた絵が中心でした。 木の板、あるいは木片。黒を
先日中津川宿へ行って参りました。馬籠、妻籠宿は、観光客用に当時の街並みが再現してありますが、中津川宿はごくわずかに面影が残るのみ。しかし、資料館が面白い、と聞いたので楽しみにしていました。 以前に訪れた鵜沼宿と同じ、中山道の宿場町。ぎふ17宿のひとつです。 中山道は東海道のように大きな川や、船の渡しが必要なく、また往来もそれほど多くなかったため、別名「姫街道」とも呼ばれました。1861年の皇女和宮の降嫁行列は有名ですね。 しかし、この中津川宿が関係する江戸末期の大
7月28日に、行って参りましたのは、珍しくワキ方の高安流の方が主催の会でした。 能というのは、やはりシテが主役です。そのため、会が催される場合にはシテ方が主催になることが多いのですが、ワキ方が主催の会が全くないとは言えません。今回はそんな特別な会でした。 能の演目は、『咸陽宮』。この曲は上演数が少なく、稀曲といっていいでしょう(宝生流では年1回上演があるそうです)。なぜ、この曲が選ばれたのか。それは、この曲はワキ方が主役である珍しい能だからなのです。 この曲は、大所
もう梅雨明けしてしまったんでしょうか…多少なりとも涼しさを期待していたのですが、雲もまばらな(笑)炎天下の中、和歌山県へ行って参りました。 謡、仕舞の先生の娘さんが、昨年能楽師の登竜門とも言われる『道成寺』を舞われました。私の娘と二人で舞台を観に行ったのですが、初めて観るスペクタクル能に度肝を抜かれました。それ以来、道成寺へ行ってみたい、とずっと思っていたのです。 『道成寺』といえば、能、歌舞伎、文楽などでおなじみの「安珍清姫物語」。しかし、この寺の建立を発願したのは、
豊田市能楽堂で「納涼能」を観て参りました。演目は、能は『砧』、狂言は『秀句傘』。 狂言が意外と面白く、当時から「ジョークが寒い」って言い回しがあるのかしらとびっくりしました。 能『砧』は初見です。今回は喜多流によるものでした。 『砧』は世阿弥作であることがはっきりしており、世阿弥の息子、観世元能による『申楽談儀』に、世阿弥が語った事として、次のように書かれます。 世阿弥自らが言ったように、室町、戦国においてはほとんど上演された記録はないそうで、謡のみがおこなわれて
織田信長は那古野出身と言われていますが、当時の戦国「武将」の血筋なんぞいい加減でしょうから、先祖は誰やらわかりません。 比較的はっきりしているのは、信長のお母さんは土田御前という方で、可児市出身であるため、おそらくは岐阜の方が信長のホームタウンであったのではと思います。信長が小牧城にいたのは永禄10年から約4年ほど。その後すぐに岐阜城へ移っています。 しかし、発掘調査の結果、麓には曲輪が整備され、武家屋敷が立ち並んでいた様子がわかってきました。山頂の城は籠城用ではなく、
5月11日。 五月晴れの中を豊田市能楽堂で、「さつき能」を観て参りました!名古屋能楽堂が改修工事のために、今年は名古屋での能の公演がなく、久しぶりの観能でした。 能の曲名は『雲林院』。 ワキは高安流の有松遼一氏。ご本は読ませていただいていますが、舞台を拝見するのは初めてでした。 素晴らしい美声でびっくりしました。声質ものびのびとしていて、心地がよい。 実は最近、謡のお稽古を始めたのですが、大きな声が全然出ないのです。とはいえ声を張り上げれば大きくなるわけではなく
秋田旅行最終日は、秋田市に。 驚くほど都会でした(笑)。海外の方も沢山!夕方には飛行機に乗らなければならない予定で、時間配分を失敗した…と思いました。もっとゆっくり観光したかった… 1871年に佐竹氏により城が築かれ、明治まで270年続いた秋田藩のお城跡です。本来は「秋田城」というべきなのですが、古代柵である秋田城と区別するために、久保田城(久保田にある城の意味。秋田藩は広いので支城が横手と大舘にもある)と呼ばれています。今は千秋公園として、市民の散策コース。休みにな
男鹿半島に行ってまいりました。 「年の折り目に神が来臨して人々に祝福を与える最古の民間信仰」として、重要無形文化財、ユネスコ無形文遺産に登録をされているなまはげですが、私はホンモノ(?)を見たことがありません。なまはげ見たい!と、男鹿真山伝承館、別名なまはげ館へ行きました! 伝承館の奥には、真山神社があります。お参りだけしておこうと軽い気持ちで神社の前に行って、絶句。ここはもとは山岳信仰の総本山であったようです。 景行天皇の御代に武内宿禰が北陸諸国視察の際に男鹿半島
年々ゴールデンウイークは暑くなっていくような気がします。東北の地でも例外ではなく、初日の27日は、日中27℃…出羽の国巡りをいたします。菅江真澄が秋田を旅行した江戸時代は、多分10℃近く違っていたのではないか…と思います。 まずは、後三年の役の金沢柵があったという、横手市へ。 前九年の役で安倍氏を滅ぼした清原氏は、奥州の地を手にしました。後の藤原清衡の母は、安倍家の娘であり、一門を失い、夫を残忍な方法で殺された後、清原氏のもとへ再嫁することとなりました。想像でしかあ
昨年10月に竹生島へ行きました。能『竹生島』の舞台です。明治政府によって、明治5年3月27日に出された施策「女人結界解禁令」は伝統的な修験道、仏教の聖地での女人禁制を禁止しました。この竹生島も明治までは、女人禁制でした。それは能でも謡われています。 醍醐天皇の臣下が近江の国、竹生島の明神へ参詣に行きます。舟で渡ろうと、老人と若い女の乗る釣り舟を呼び寄せ、乗せてくれるように頼みます。快く乗せてくれた舟は竹生島へ向かって漕ぎ出します。 やがて舟が竹生島へ着くと、老人が案内
春の嵐の中、幕末、江戸と京都を繋いでいた五街道の一つ、中山道の宿場町へ行って参りました。とはいっても、有名な馬籠、妻籠宿ではありません。 中山道は、全長534㎞(135里32丁)に69の宿場が置かれました。木曽を通る木曽路はそのうちの11宿。その最後の宿場が馬籠宿です。そこから「美濃路」が始まります。今回行ったのは、この美濃地方を横断する17宿(馬籠を入れる)の中の鵜沼宿です。 鵜沼宿は、江戸から数えて52番目の宿場。江戸時代には尾張藩。すぐ近くには犬山城がそびえます
今年も、春の祭典、『桃華能』へ行って参りしました。 かつて能の興行は1日がかり。神、男、女、狂(雑)、鬼の五番と、合間に狂言を挟みつつ朝から晩まで楽しんでいたのですね。現代ではとても全部は無理ですが、それに見立てて番組編成がされています。とても風流ですね。 番組は、以下の通り。 神:能『右近』 男:仕舞『箙』 女:仕舞『小塩』 狂:仕舞『網之段』 鬼:仕舞『野守』 狂言:『鶯』 最後に 雑能:『藤栄』 でした。舞尽くしで幸せでした。 『藤栄』 今回は、『藤栄』
先日、現在東京都博物館で開催中の『建立900年特別展 中尊寺金色堂』展へ行って参りました。 昨年夏に、初めて中尊寺へ参拝しました。 ほとんど森の中と言っていいような参道:月見坂を上り、どんどん歩いて行くと、やっと最奥に金色堂があります。しかし、それはコンクリート製の覆屋で覆われ、分厚いガラス壁越しにしか見ることはできません。当然のことながら写真撮影禁止。遠くに見える金色堂は「ああ、確かに金色だな~」という以外はあまり感慨はなし。じっくりと仏像を見たり、場合によっては歴