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中山道 鵜沼宿

 春の嵐の中、幕末、江戸と京都を繋いでいた五街道の一つ、中山道の宿場町へ行って参りました。とはいっても、有名な馬籠、妻籠宿ではありません。
 中山道は、全長534㎞(135里32丁)に69の宿場が置かれました。木曽を通る木曽路はそのうちの11宿。その最後の宿場が馬籠宿です。そこから「美濃路」が始まります。今回行ったのは、この美濃地方を横断する17宿(馬籠を入れる)の中の鵜沼宿です。

 鵜沼宿は、江戸から数えて52番目の宿場。江戸時代には尾張藩。すぐ近くには犬山城がそびえます。

鵜沼宿


街道の絵


 各務原市歴史民俗資料館の学芸員、長谷健生さんが朝日カルチャーセンターで『幕末の中山道』という全2回の講義をされていました。第1回目は、3月10日(次回は3月24日)。その中でご紹介されていた「和宮御膳」を食べに行こう!というのが今回の旅の目的です(笑)

*以下の記述は、カルチャーセンターの講義でお話いただいた内容と、今回鵜沼宿の歴史ボランティアガイドさんからのお話、最後に参考であげる資料を元に構成しています。

 中山道は別名、姫街道とも呼ばれ、江戸時代、将軍の奥様となったお姫様の多くがこの街道を通って輿入れされました。
 なぜかというと、東海道と違って、大きな川を渡る場所がないからだそうです。確かに東海道はいくつもの川があり、中でも有名なのが大井川です。「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ大井川」と唄われたように、川が増水しようものなら、幾日も足止めを喰らいます。その間の家来たちの宿泊料や食事代を考えると、参勤交代の費用も馬鹿にならない大名各家にとっては、頭の痛い問題であったでしょう。
 中山道は、ひたすら歩いて一日の距離を稼げばお金も浮きます(笑)もっとも、山道を通るので、追剥などの危険があったようですが、多くのお供がいれば、その心配もなかったことでしょう。次の加納宿までは17㎞(四里十丁)と遠い道のりでしたが、当時の人は、1日40㎞歩いたそうです。どれほど健脚だったんでしょうか…
 江戸将軍の奥様で一番有名なのが、和宮であろうと思います。孝明天皇の妹で、有栖川宮と婚約されていましたが、公武合体の政策のもとに、第14代将軍徳川家茂に嫁ぐことになります。ご結婚されてからは仲が良かったと伝えられますが、京都でしか暮らしたことのない公家の姫様が、顔も性格もよく知らない旦那のものと嫁ぐのですからさぞや不安だったことでしょう。和宮は24泊25日かけて京都から江戸へ向かいました。
 この鵜沼宿にも泊まられた和宮の昼食の献立が残っています。

『花の木』さん提供
読めん…

 平皿  さより 葉附大こん 志い竹
 汁   赤ミそ 午房小口切
 香の物 同断(なら漬なす 沢庵大根)
 御飯
 坪皿  赤貝 山のいも 銀なん 薄葛生か(うすくずしょうが)
 焼物  いな付け焼

2020年2月16日 朝日新聞記事より

 海が近くにないのに魚があるのは、木曽川から海へ出ることができたからです。昔は帆掛け船で通行していたようです。

めちゃくちゃ美味しかった…釜飯つきます!

 尾張の人間にとっては赤みそは普通ですが、京都から来た和宮は、びっくりされたかもしれませんね。けれど、鵜沼宿の人たちの温かいもてなしと、美味しいご飯に幸せな気分になったに違いがありません。美味いものを食べれば、大抵なんとかなります。
 献立では汁の中に、ネギは入っていないのですが、料理を再現された方によると、午房の臭みを取るにはネギが入っていたほうがよいそうです。
 この鵜沼宿には、日本地図を作ったといわれる伊能忠孝も立ち寄っており、太田宿に泊まった際にうとう峠での昼食をこの鵜沼宿が提供したそうです。彼が食べたのは、「ねふかそうずい(ねぎの雑炊)」であったそうで、「たくさん食べた」と記録されてしまっています(笑)よい味のネギが取れる土地柄なのでしょうか。今回はお腹の余裕がなくて、雑炊が食べられなかったですが、次回はぜひ食べたいです。

伊能忠敬も腹減ってたんだろう…
食べたかった…


 ここ鵜沼宿は、天保14年(1843)には、人口246人、戸数は68軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠は25軒があったと伝えられます。明治に入っても、それらの建物は残っていたようですが、明治24年(1891)に濃尾平野を襲った、濃尾地震より、1つの旅籠屋(茗荷屋)を残してすべてが倒壊してしまったそうです。濃尾地震といえば、有名な根尾谷断層を引き起こした巨大地震です。死者は7000人超と伝えられ、私が小学生の頃は岐阜の地震と習いましたが、ここでも壊滅的な被害があったとは知りませんでした。
 その後再建された建物が数件残っており、短い区間ながらも当時の面影を残しています。

今も住んでいらっしゃる
茗荷屋。唯一倒壊を免れた。

 武藤家は、江戸時代に旅籠屋「絹屋」を営んでいたのですが、ここも濃尾地震で倒壊してしまいました。明治40年に再建し、昭和まで郵便局をされていたそうです。平成になって建物は各務原市に寄付され、2008年に「中山道鵜沼市町屋館」としてオープンしました。無料で自由に見ることができ、歴史ボランティアさんの説明をじっくり聞くことができます!

中山道鵜沼宿町屋館
和階段。収納が素晴らしい
二階の天井は低く、頭を打たないように丸天井になっている
離れと立派なお庭がある

 写真を取り忘れてしまったのですが、天井裏からは槍と袖がらみ(袖にひっかけて相手を引き倒す)、短剣など、当時の護衛用の武器も発見されたそうです。警察機能は自力でってことでしょうが、相手がお侍さんとかだったらどうするでしょう…?
 いろいろな資料が展示されており、また実際に使用されていた箪笥や長火鉢が置いてあります。昔の祖母の家を思い出しました。

素敵な衝立

 この町屋館の隣には、当時、本陣がありました。大名、公家、幕府役人などが宿泊する施設が、その建坪は174坪あったそうです。今は土地は分譲され、個人のお宅が建っています。

 その隣には脇本陣がありました。やはり濃尾地震で倒壊してしまったのですが、江戸時代末期の間取り図をもとに再現され、平成22年から公開されています。こちらにも歴史ボランティアの方がいて、丁寧な説明がきけます。

松尾芭蕉は鵜沼宿を3回訪れ、坂口家(脇本陣)に宿泊している。
その際に俳句を読み、石碑が残る。
瓦がすごい
主客はここから輿に乗ってそのまま入ってくる
奥に行くと上段の間があり、そこが主客が泊まるところ。
素晴らしい襖絵と欄間があるが撮影禁止。残念。


主客のためのお風呂とトイレが裏にあり、渡りでつながっている
結構広い風呂場
トイレはいわゆるオマル。医者が毎日検便して健康チェックした
中庭も素晴らしい
お供の風呂。どこで着物を脱ぐのだ…外か?
お供の人用ぼっとん便所。夜とか足踏み外しそう…
小用トイレ…

 
 脇本陣のすぐ隣に神社がありました。江戸時代の始めに鵜沼宿が開設される時にこちらに移されてきたものだそうです。祭神は国狭槌命。境内には保食大神の石碑もありました。

二ノ宮神社
神楽を奉納する場所だったのかも
保食大神は五穀や養蚕を司る神。


 もともと古墳のあったところの上に建てられており、石室の横穴が。中には当時から何もなかったようです。

古墳の横穴


 実は写真を撮る時に、四方に刺さっている榊に気付かずにまたいでしまっていました。写真を取ろうと、大きく後ろに下がった時、背中にこつんと当たるものが。階段中央の手すりでした。それに当たらなければ、急な階段を頭から転げ落ちていたことでしょう。そこでようやく、足元の榊に気付きました。蒼くなりながら、重ねて篤くお祈りをせていただきました。若干血の気が引いていたかもしれません…私は特別に信心深いわけではありませんが、長く人々の祈りの対象になってきた場には、何かが宿るものだと思っています。古墳時代の昔からこの地に宿るものがあるような気がします。
 今回は雨のために、全く回ることができなかったのですが、この各務原にはかつては600以上の古墳がありました。はっきりとした資料や研究を読んだことがないのですが、木曽川沿いのあたりに大きな勢力をもった豪族がいたのかもしません。犬山から小牧へ抜けることができますが、小牧にも古墳群(大山・野口)が存在しています。さらに、名古屋市守山区の東谷山(フルーツパークがある)も約50の古墳群があります。これらは詳しい発掘調査はされてはいないようですが、今後研究が進むことはあるんでしょうか…?


大安寺大橋

参考

町家館で購入できる
21コースもある…
かなり専門的
詳しい
パンフレット素晴らしい。
もっと値段を上げていいんじゃないでしょうか…

 とても楽しい街道散歩でした。犬山城のついででも十分にまわれますが、あまり人が多くなるのも情緒がなくなりそう。難しいところです。それにしても、ボランティアガイドさんありがとうございました。また行きたいです!

3月22日追記:

 翌日本屋をぶらぶらしていたら、新泉社シリーズ「遺跡を学ぶ」130『邪馬台国時代の東海の王 東之宮古墳』(赤塚次郎著)という本が目に入りました。あまりのタイムリーさとちょっと怖くなったのですが(笑)、この本は鵜沼地区の古墳群(古市場古墳群というらしい)の木曽川を挟んだ対岸にある、犬山市白山平山頂に位置する東之宮古墳の入門書です。とはいえ、著者は発掘調査に長年関わっており、この地区の遺跡について述べられている唯一無二の本といってもよく、とても詳しく、興味深いです。
 著者によれば、現在の岐阜県各務原市鵜沼地区を含めた、犬山市域から大口町、扶桑町、江南市・岩倉市、一宮の南・西域、小牧北部域に渡る広大な犬山(木曽川)扇状地を、かつては「邇波」と呼んでいたということです。鵜沼の古市場遺跡群を中心に、4つの巨大古墳が存在しており、おそらくは3世紀中ごろを中心に活躍した人物がこの地の王だったのではないか、と結論づけておられます。ちょうど邪馬台国が台頭していた時期でもあり、東海とのかかわりが想像できて面白いですね。