竹生島の弁財天
昨年10月に竹生島へ行きました。能『竹生島』の舞台です。明治政府によって、明治5年3月27日に出された施策「女人結界解禁令」は伝統的な修験道、仏教の聖地での女人禁制を禁止しました。この竹生島も明治までは、女人禁制でした。それは能でも謡われています。
醍醐天皇の臣下が近江の国、竹生島の明神へ参詣に行きます。舟で渡ろうと、老人と若い女の乗る釣り舟を呼び寄せ、乗せてくれるように頼みます。快く乗せてくれた舟は竹生島へ向かって漕ぎ出します。
やがて舟が竹生島へ着くと、老人が案内してくれます。お詣りを済ませたあと、臣下たちはいうのです。
なんと失礼なものいいでしょうか…勝手に舟に便乗しておいて…
しかし、老人は言います。
実は、この女は、弁財天の化身だったのです。そう告げて、女神は社殿に入っていき、老人もまた消えて行きます。
能の後半では、女は女神の姿となって現れ、天女の舞を舞い、そのあと、竜神が現れます。老人は龍神の化身だったのです。
竜神は舞働といって、笛を中心に鼓、太鼓に合わせたダイナミックな舞を舞います。それがとてもカッコいいのです。天女の舞とのコントラストが素敵な能です。
江の島、宮島と並ぶ、日本三大弁財天の一つで、日本で一番最初に弁財天を祀ったと言われています。そして、竹生島は明治の「神仏判然令」がでるまでは、「神社」ではなく、僧侶たちが奉仕する「寺」でした。
隣にちっちゃく竜神が祭ってある(笑)
1487年に建立されたのですが、江戸期に落雷で焼失。平成12年に再建されたものだそうです。当時の工法で再建されました。
宝巌寺の観音堂の入り口「唐門」は、国宝です。秀吉が建てた大坂城極楽橋の一部が移築されたものであると考古学的な調査ではっきりしたのです。
女人禁制の島ではありましたが、能の「竹生島」でもわかるように、女性の信仰が篤かったようです。豊臣秀吉の妻であった寧々もその代表的な女性です。しかし、この唐門の移築に関わったのは、寧々でなく、秀頼を産んだ淀殿でした。
淀殿は、浅井長政とお市の方の娘。二人には淀殿を長女とした、3人の娘がいました。浅井三姉妹と言われた茶々、初、江は戦国の戦乱に巻き込まれ、幼少期から波乱の人生を歩みます。
わずかな資料が残るのみですが、もともと浅井家と竹生島のつながりは深いものであったようです。古来より、浅井郡に居住する民はすべて竹生島の「氏子」とされ、浅井氏もまた弁財天を崇敬していました。長政は竹生島の金銭的な援助も行っていました。
父、長政を滅ぼしたのは信長であったとはいえ、降伏の使者となっていたのは木下藤吉郎、のちの豊臣秀吉です。やがて、茶々は秀吉の側室となります。彼女がこの竹生島に秀吉の城の一部を移築する…というのは、女性としての業に対する強い祈りを感じさせます。戦乱の中で生きてきた彼女がつかの間の平和を感謝するものだったのかもしれません。しかし、淀殿の最期を考えると泣きそうになります。
宝巌寺の宝物殿には、浅井三姉妹の末娘、江ゆかりのものがあることがわかりました。江は秀吉、家康の意向で3度の結婚を強いられます。そこには彼女の意志は全くなかったことでしょう。3度目で、徳川家康の息子、秀忠と結婚し、3代将軍家光を産みます。江は、大奥で寄付を募り、竹生島へさまざまなものを奉納したようです。彼女の時代にようやく本当の平和が訪れます。
彼女は、父の死の記憶はなかったでしょうが、姉の死を見せられることになりました。父、姉が信仰した竹生島へは、どのような思いを抱いていたでしょうか。
次女である初については、まったく記録がみつかっていないそうです。しかし、彼女もまたどこかでこの島を意識することがあったに違いないと思います。
平家物語巻七に「竹生島詣」の章があります。平経正は詩歌管弦にすぐれた人でした。大将である平維盛、通盛は軍を進めましたが、副将軍である経正は近江国塩津、貝津に留まります。ある時、湖のはるか沖にある島を見て、「あれは何という島ですか」と尋ねます。「あれは竹生島です」と聞いた経正、「そこにお参りしよう」と5、6人で向かいます。
「平家物語」には、戦争の途中でもこうやって、名所を巡ったり、管弦会を開いたりする記述が多くあります。おそらくは、源氏との違いを際立たせて、「貴族的な要素」を強調するために挿入されているのだと思うのですが、雅な描写が私は好きです。特にこの巻七は好きなお話が多いです。
島に渡った経正は読経をして祈ります。やがて日が暮れ月が出るころ、寺の僧たちが、「貴方は琵琶の名手であるとか。どうか弾いてください」とお願いします。経正は快く琵琶を奏でます。
この後、(一時的な)勝利があったようです。できれば、平家を勝たせてあげて欲しかったですね。