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中尊寺金色堂と藤原清衡

 先日、現在東京都博物館で開催中の『建立900年特別展 中尊寺金色堂』展へ行って参りました。

 昨年夏に、初めて中尊寺へ参拝しました。
 ほとんど森の中と言っていいような参道:月見坂を上り、どんどん歩いて行くと、やっと最奥に金色堂があります。しかし、それはコンクリート製の覆屋で覆われ、分厚いガラス壁越しにしか見ることはできません。当然のことながら写真撮影禁止。遠くに見える金色堂は「ああ、確かに金色だな~」という以外はあまり感慨はなし。じっくりと仏像を見たり、場合によっては歴代のご遺体が収まる部分がちらりとでも見られるかと期待してきたので、ちょっと肩透かしでした。ですので、今回の展覧会を楽しみにしていました。

 当日はあまり並ぶことなく入場することができました。入ってすぐに、今回の展覧会の協賛であるNHKが盛んに宣伝をしている中尊寺金色堂のCG映像を見ることができます。原寸大での仏像で、あたかも金色堂の中に入って見ている、という触れ込み。確かに映像は息をのむほど素晴らしい。けれど…それが終わって、実際の仏像たち(中央檀のもののみなので、本来33体あるうちの11体のみ)を見ると…とても小さいのです。京都の阿弥陀堂での仏像を見慣れていると、その小ささにびっくりすると思います。思わず「え?ちっちゃい…」と口から洩れてしまいました。
 そして不思議なのは、その構成。阿弥陀如来、左右の勢至菩薩、観音菩薩はいいとして、持国天と増長天のみ?さらに地蔵菩薩が6体?なのが謎でした。持国天と増長天がいるなら、広目天や多聞天は省略したんだろうか…それを地蔵菩薩がカバーしているにしても数が多いな、とか。
 今回の展覧会では、見学したかった仏像をつぶさに見られたこと、清衡の金棺を初めてみることができたこと、金銀字交書一切経の実物を見られたこと(中尊寺では金字一切経が展示してある)など素晴らしかったけれど、圧倒的に説明不足の印象でした。CG映像を作るのに金を掛け過ぎたんですかね…NHKさんが目玉にしたかったのは分かるのですが、もう少し歴史的な論考を知りたかった…と少しもやもやしながら帰ってきました。

 ところが展覧会の図録にそれについての「答え」が書かれていたのです。


さて、金色堂のもつ大きな特徴が、堂内に藤原氏歴代の遺骸を納めた棺を安置する葬堂と呼ぶべき性格である。

 阿弥陀仏の仏国土である西方・極楽浄土を厭離すべきこの穢土に現出させ、自らそこに眠ろうとした結果である。そもそも、金色堂が華奢な小堂であるのは、安置される棺を基準として設計されたからだとする説がある(須藤・岩佐1989)。すなわち金色堂は創建当初より清衡の棺を納めるいわば容器として建てられたというのだ。

『建立900年特別展 中尊寺金色堂』図録
「夢の光芒」児島大輔

 まさにそれだと思いました。そうしている時に、朝日カルチャーセンターで、この論をのべていらっしゃった須藤弘敏先生の『二重の金棺 中尊寺金色堂』の講義を聴くことができました。先生の論考は以下の論文にまとめられています。

https://hirosaki.repo.nii.ac.jp/record/1929/files/tokutei1989_r25.pdf

須藤弘敏先生 「中尊寺金色堂考」

 ごく簡単に結論をまとめてしまうと、中尊寺金色堂は「阿弥陀堂の形式をとった藤原清衡の墓であり、自らの遺体を残すために造営したものである。それは自身の神格化ではなく、奥羽全体に仏の救済を及ぼすべく罪障除滅の象徴たらんとするためであった。金棺、および金箔のほどこされた金色堂は、その金色の力でもって不浄なる遺体を浄化荘厳する。仏の力で極楽往生しながらも、いつかやってくる弥勒の救済を見届けるまでこの世に遺体を留まり続けさせる」ためのものである、ということです。
 とても納得できるもので、今更ながらに藤原清衡という人の覚悟のことを思うと鳥肌が立つほどでした。
 古代から、絶えることなく蹂躙されつづけてきた東北という地。その中心である奥州、中尊寺の金色堂という霊廟で、阿弥陀如来による極楽浄土を強く願いながらも、やがて現世する弥勒による、あまねく魂の救済を現世に肉体を残してひたすら待ち続ける清衡。知っての通り、地蔵菩薩は六道を周りながら地獄に堕ちた人達を救済してくれる仏様ですから、万が一にも地獄に堕ちた時のことも考えていたのでしょう。それを思うと少し涙が出ます。
 私たち現代人は、このような過去の人の思いを非現実的であるとか、宗教的であるから現代とは相いれないと言いがちですが、一族郎党すべてを失うような血で血を洗うような戦乱を一人生き抜き、なおかつリーダーとして生きなければならなかった清衡の並々ならぬ決意を笑ってはいけないと思います。
 その彼がその後100年も続く藤原氏の基礎を作ったのです。強靭な精神力に裏打ちされた政治力でもって奥州をまとめあげ、粘り強い交渉を繰り返しながら中央からの介入を拒み、独立した地上の仏国土を作り上げることができたのは、深く信じる力があってこそだったことは間違いがないでしょう。

 あらためて、金色堂が現代まで残っている意味を考えると感慨深いものがあります。


 
参考