金沢柵と出羽の国
年々ゴールデンウイークは暑くなっていくような気がします。東北の地でも例外ではなく、初日の27日は、日中27℃…出羽の国巡りをいたします。菅江真澄が秋田を旅行した江戸時代は、多分10℃近く違っていたのではないか…と思います。
まずは、後三年の役の金沢柵があったという、横手市へ。
前九年の役で安倍氏を滅ぼした清原氏は、奥州の地を手にしました。後の藤原清衡の母は、安倍家の娘であり、一門を失い、夫を残忍な方法で殺された後、清原氏のもとへ再嫁することとなりました。想像でしかありませんが、前夫、藤原経清との間の息子である清衡の命と交換条件で、彼女はそれを受け入れたのかもしれません。ある意味ではしたたかで、いつの時代も女性は強いなと私は思います。
清原氏の館は、大鳥井山遺跡と呼ばれる場所にあったと考えられ、発掘調査の結果、建物の基礎、かわらけなどが多数見つかり、現在は国指定史跡になっています。後に平泉藤原氏の館となる柳御所遺跡との類似性も指摘されているようです。
しょうもないきっかけ(※)から始まった清原氏の内紛は、やがて源義家を巻き込んで、後三年の役へと発展します。
(※真衡は養子を迎え、その妻には源頼義の娘(義家の妹)を迎える。清原氏一族が祝言の挨拶として差し向けた吉彦秀武は、挨拶を無視されたと騒動を起こし、そこから戦いとなったと言われる)
清衡にとっては、義理の兄にあたる真衡、同母の弟であっても、自分とは異なり清原氏の血を引く家衡がいる限りは、清原氏の中での地位は限られ、その将来には不安を持っていたことでしょう。これを契機とみたかどうかはわかりませんが、清衡は、家衡とともに源義家と連合して、真衡に対抗しようとしました。
ところが、真衡が急死します。
真衡の死でいったん収束した戦いですが、今度は、清衡と家衡、異母兄弟の間で再び戦いが勃発します。戦い後の財産分配で、清衡の配分の方が優位なことに家衡が激怒したからです。家衡は清衡の館を襲撃し、妻、子供に至るまで皆殺しにします。おそらくここで、二人の母も亡くなったのではないかと思います(その後で名前が出てこない)。
清衡は再び義家と連合し、家衡に対抗します。
家衡の軍は強く、また、東北の厳しい冬のせいで一時は義家の軍は撤退することになりました。勢いづいた家衡は、叔父である武衡とともに難攻不落とされた「金沢柵」へと移って立てこもります。
攻めあぐねた城を「兵糧攻め」で攻め落とすことを提案したのが、戦いの発端となった吉彦秀武っていうのは、なんとも皮肉です…
金沢柵がどこであったかについては、まだわかっていないようですが、資料館裏にあたる場所で、建物の跡と道路跡が発見されました。これが陣館で、こちらも国指定史跡になっています。この建物の建つ地形は、平泉の金色堂のある地形と似ているために、なんらかの宗教空間であったのかも、と言われているようです。
後三年合戦金沢資料館は、小さいながらも十分満足ができる展示でした。資料DVDはとても気合が入っていますので、ご覧になるのをお勧めします!解説員の方がすごくアツい説明をして下さいました。歴史は暗記になってしまうと途端につまらなくなってしまいますが、過去の人間たちの営みや思いを伝えてくれる人がいると、本当に楽しいんですよね。
少し離れたところに、「平安の風わたる公園」というところがあり、その雅な名前から、チェックしていました(笑)
昔「日本の歴史」の漫画でも読んだ覚えのある、「雁行の乱れ」の話の舞台と言われる場所だそうです。
金沢柵へと向かう義家軍。それを待ち伏せしている家衡軍の兵士たち。ふと、雁行が乱れて飛ぶのを見た義家は、かつて大江匡房から教わった「孫子の兵法」を思い出して、敵の潜むのを知った、という逸話です。ホントかいな…とも思うのですが、義家は大江匡房に色々教えを乞うているので、どちらかというと二人の微笑ましい(?)やりとりを後で挿話として盛りこんだのかもしれないですね。
この大江匡房さん、公卿で、エライ歌人ですが、小野篁伝説を書いた、ちょっと変わった人でもありますよね…
広場になっているところには、藤原清衡と源義家、清原家衡と武衡のブロンズ像があります。その足元の煉瓦は、系図になっています!誰だ、こういう楽しいの作っちゃう人!!ほんと好きだ。
系図を見ていて気がついたのですが、新羅三郎義光の子孫が佐竹氏に当たります。関ヶ原の合戦の時の態度が、家康のお気に召さなかったため、佐竹氏は、常陸の国から秋田への国替えを命じられます。それでも、先祖ゆかりの地であることもあり、佐竹氏はこの地の人たちと共に、歴史や八幡宮などをよく守ったと伝えられているようです。
金沢柵が史上で確認ができるのは、『奥州後三年記』と『後三年合戦絵詞』での描写であるそうです。『後三年合戦絵詞』は、貞和三年(1347)に僧玄彗(げんえ)を中心に描かれたものとされて、現存は六巻中後半の三巻でほぼ金沢柵の戦いの場によって構成されています。「後三年合戦金沢資料館」には、この複製を見ることができ、「平安の風わたる公園」にもモニュメントして飾られています。
「義家を罵る千任」
平千任は、清原家衡の乳人とされ、金沢柵で義家に向かって「お前は安倍を滅ぼす際に、清原氏におもねって頼み込んでようやく勝つことができたのだ。それなのに、今や清原氏を責めるなど恥ずかしいと思わないのか」と罵ったそうです。それに対して義家は「まあ、今はほおっておけ。しかし、あいつを捕まえた奴には褒美をとらせるぞ」といったとか…最後につかまった千任は舌を抜かれたと伝えられます。義家って、貴族の坊ちゃんって感じではないですよね…
「鎌倉権五郎景正の活躍」
わずか16歳で初陣を景正は、戦いのさなかに右目を射られます。それでも奮闘しますが、陣地で倒れてしまいます。三浦平太郎為次がその矢を抜こうと顔を踏みつけたところ、刀を抜いて為次に切り付けようとし、「弓矢に当たって死ぬのはよいが、顔を踏みつけられるのは恥である。お前を殺して、俺も死ぬ」と暴れます。それを「もっともだ」と思い、為継は、膝を押し当て矢を抜き、その眼を近くの厨川で洗わせました。その後、この川では片目のカジカがすむようになったと伝えられます。
なんていうか…どっちもクレイジーですね…この絵詞の成立は南北朝期なので、俺の先祖は…という具合に(大庭景義や梶原景時の親戚らしい)このような勇ましい「兵」の逸話が伝えられているのかもしれません。
納豆発祥の地
知らなかったのですが、ここ秋田は納豆発祥の地とされる場所が3ヶ所(笑)あるそうです。そのどれもが、源義家に関連する逸話であるため、おそらくは同時発祥的に広がったのでしょう。
曰く、戦いで食糧が不足している陣中で、少しでも足しにしてくださいともらった豆を藁で包んで運んでいました。激しい戦闘で、体温の上がった馬の背に乗せられていた豆が発酵して納豆になった…と。
う〜ん、私たちは納豆が美味しいものだとわかっていますが、初めて食べる人間があの匂いを嗅いで「食べてみよう」あるいは「これは食べられる」って思いますかね…?十中八九、最初に食べた(食べさせられた)のは、義家本人ではなく、その家来でしょう…
参考文献
1000年前には、この土地で血で血を洗う戦があったとはとても信じられないほどのどかな風景が広がっていました。当時の人達に思いを馳せつつ、秋田の地をさらに巡ります。