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ディアエヴァンハンセン

ディアエヴァンハンセンを見ました。

ミュージカル映画は派手なシーンが好きなので、期待していた面白さとはまた違いましたが、面白かったです。あらすじは見ずに行った方がより楽しめるかもしれません。私はあらすじを読んでいなかったおかげで、驚くシーンがいくつかありました。

この映画に通底する具合の悪さみたいなものが、観ている間消化不良のままで蓄積されていくのですが、ラストの展開で救われます。このシーンを見るための映画だったな、と見終わってから思いました。

歌は抜群に良くて、見終わってから延々とサントラを聞いています。ということは、やっぱり良い映画だったんだなと思います。内容に触れつつ映画の感想を書くので、まだ見ていない方は読み進めるのを避けてください。時間があれば、ぜひ見てみてください。

・・・・以下、内容を含む感想です・・・



映画が始まって一番最初の歌「Waving Through a Window」この歌がすごく良かったですね。何度聴いてもいい曲です。

When you're falling in a forest and there's nobody around
Do you ever really crash, or even make a sound?

主体と客体が逆転した歌詞が英語で歌われると違和感を感じます。どちらかというと日本っぽい歌詞ですよね。人の間と書いて人間と読む日本では、昔から人間は社会の中にいる存在だった。そんな世界では、自分の存在価値は自分自身ではなく、他人の目を通して見られた自分によって決められる。

この主体と客体が逆転する感覚がアメリカにも、少なくとも5年前からはあったんですね。基本的な文章が"I=私"で始まる英語では主体性を重視し、周囲との同調よりも個人の権利に意味がある。

上記のような日本人像・アメリカ人像もすでに古いものだとは思いますが、それでも改めて英語で聞くと驚きがあります。日本のドラマや映画ではやり尽くされた感もある「社会に埋没する主人公が、私という存在を獲得していく」というテーマが海外で受け入られているんですよね。もう少し時間が経てば、海外でも村田沙耶香のコンビニ人間のような人生観も共感を呼ぶかもしれません。

現在、日本では個人の権利を求める声が大きくなり、その一方でアメリカでは社会との繋がりへの不安感が募っている。アメリカでの社会不安を生んだのは、SNSを含んだインターネットだったと思います。

社会と繋がる事を目的としたSNSの場で、誰からも反応がないSNSは無価値になる。反応があって、誰かに評価されて初めてSNSは意味を持つ。だから、自分が何を投稿したいかではなく、他人に好まれる投稿を増やしていく。そうして他人の目を通した自分の評価を高めようとする。

この感覚が生活感覚にまで結びついたのが、冒頭の歌詞"When you're falling in a forest and there's nobody around, Do you ever really crash, or even make a sound?"ですよね。目撃者がいなければ、自分で経験した事故さえもなかったことかもしれないと疑問に感じてしまう。


この主体と客体が逆転する感覚は、コナーが自死した後の家族の反応にも現れます。初めはコナーの死に悲しみなどない、と言っていたのに、エヴァンのスピーチがバズった後で「彼はこんなに愛されていた人物だった」と意見をひっくり返す。このラリーとゾーイの変化が、どうにも具合が悪い。

そしてクラスメートや周囲の人が、スピーチのバズりをきっかけに嫌われ者だったコナーを悼み、視界にも入っていなかったエヴァンに声を掛ける。亡くなったコナーのSNSには群衆からのメッセージが殺到する。「君ともっと話すべきだった」というSNSへの投稿は、後悔に見せかけた自分語りでしかない。しまいにはアラナがクラウドファンディングを発足し、思い出の果樹園を復活させようと励む。バズって注目度の高い死者を利用した「私」のセンシティブな一面を社会に披露する壮大な自分語りである。

見ている間ずっとこの具合の悪さがあって、でもその感情を横滑りするように綺麗な言葉と歌が流れていく白々しい時間。これはSNS社会の気持ち悪さを視聴者に追体験させる効果的な表現だったと気がついたのは見終わった後でした。

見ている間は、なんじゃこりゃ、こんなんで感動させようとしてんのか、と心で呟いていたのですが、やっぱり表現していたのは今の社会への違和感ですよね。心の呟きそのままに、「なんじゃこりゃ、こんなんでいいのか」と誰もが呟いている。感動をエンタメとして消費して、それをムーブに変えようとする姿は白々しくて遠い。実感が伴っていない。SNSでシェアされた数に喜び、クラウドファンディングの残り金額に焦り、そこにコナーの姿はない。

具合の悪いシーンが長く続いて、最後にエヴァンがマーフィ家にビデオを送ります。それは薬物依存症からの回復を目的とした施設で、コナーが自分で作曲した歌を歌うシーン。
a little closer、この曲で一連のシーンが救われたなと感じました。コナーも社会との繋がれないことのもどかしさに苦しんでいた一人。

Well, today, today What felt so far away feels a little closer
For today, today, today Feels a little closer

この歌で思い出したのは、冒頭でコナーがエヴァンのギプスにサインを書くシーンでした。乱暴なコナーの優しい振る舞いにはやや違和感がありましたが、彼なりにもがいていた証だったのかもしれません。ギプスにサインのない孤独なエヴァンに手を差し伸べようとして、でもエヴァンが妹のことを書いていて頭に血が上ってしまった。この短気な性格に自分でも嫌気がさしていて、社会とうまく繋がれない自分を無価値だと責めていた。もがいていた彼の歌だから、どうしようもなく響いて聞こえます。


SNSの気持ちの悪い部分を描き続けたこの映画の光は、二人の母親の存在でした。仕事で忙しく、あまりエヴァンに構ってやれないけれど、その存在を信じ何があっても守り抜くと決めているハイディ。趣味嗜好はころころと変えても、コナーの中にある優しさを見出そうとし、亡くなった後も一貫して愛する我が子の生きた証を探そうとするシンシア。エヴァンが罪を告白した後、「息子を二人も失くすのは辛いから」とシンシアからの伝言を聞いたシーンでは母親の芯の強さを感じました。

群衆のいいねやシェア数よりも大事な存在はすぐ近くにあったということです。そう書いてしまうとめちゃくちゃ陳腐なのですが、誰かのセリフにもせずそのことを描き切ったこの作品はやっぱり秀作でした。

好きな映画です。

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