辿り着いたヴィエンチャン(我々の偉大な旅路 8-1)
↑こちらのシリーズの続きです
↑越老国境編はこちら
香港を出発し、中国本土の深圳・広州・南寧、友諠関を抜けてベトナムのハノイを経て、国境でのトラブルや長時間のバス旅を経てラオスへやってきた。東南アジアの内陸国、日本からの直行便はなく、あまりなじみのないメコンの国。国境から首都のヴィエンチャンまでは大きい町はなく、ひたすら田舎の一本道をバスに揺られて移動してきた。この国で一体我々は何を目にするのだろうか。
トゥクトゥク
バスがヴィエンチャンのバスターミナルに到着したのは夜の10時近くで、あたりは閑散としていた。ヴィエンチャンでの予定は何一つ決まっていない。泊まる場所すら決めておらず、ここから先は行き当たりばったりになる。一緒にバスに乗ってきた外国人たちの何人かも同じような状況とのことだった。私とワカナミは彼らとともにヴィエンチャンの安宿街を目指すことにした。香港の重慶大厦、ハノイのホアンキエム湖のように、多くの旅行者が集うエリアがあるらしい。そこを目指せばとりあえずきょうの宿は確保できるだろう。
バスターミナルには長距離バスを降りた乗客を待ち受けるように、乗り合いの三輪自動車が止まっていた。東南アジアでよく見るトゥクトゥクだ。よく見るといっても、我々は初めての東南アジアであったし、ベトナムのハノイではそれを見かけなかったため、トゥクトゥクを見たのはこれがはじめてであった。オーストラリア人の男がトゥクトゥクと交渉をしてくれ、我々はトゥクトゥクに乗り込んだ。定員いっぱいで乗ったトゥクトゥクは、全員が大荷物ということもありとても窮屈だった。
「笑っちゃうな、なんか」
そう言ってワカナミは笑いながらトゥクトゥクの移動を楽しんでいた。私もなぜか面白いこの状況を笑いあいながら楽しんでいた。実に24時間もかかったバス移動の苦労はすっかり忘れていた。
「君たちはどこに泊まるんだい?」
オーストラリア人の男が我々に聞いてきた。
「まだ決めていなくて…」
「俺たちはここに泊まる」
スマホの予約サイトの画面を見せてきた。典型的な安宿のようだ。
「このあたりのエリアには、こんな宿がたくさんある。君たちもいったんここを目指して、周りで宿を探せばいい」
地図も一緒に見せてもらったが、どうやら宿の心配はそんなになさそうだ。我々を含めた一同はほっとした表情でお互いにここまでの旅路を労いあった。
パトゥーサイ
「あ、見て!」
フィリピン人の女性が指さして我々に呼びかけた。彼女の指す方向には荘厳な門がライトアップされてそびえていた。ヴィエンチャンの凱旋門だった。パリの凱旋門を実際に見たことがないが、よくテレビやインターネットで目にするパリの象徴たる凱旋門によく似た凱旋門が夜のヴィエンチャンの街に煌々と佇んでいた。
「あれはパトゥーサイよ」
彼女は我々に教えてくれた。ヴィエンチャンの主要な観光地の一つであるそうだ。ラオスはベトナムと同じく旧フランス領の国なので、街のシンボルがパリに影響されたものであることは容易に想像がついた。灯りもまばらな夜のヴィエンチャンでライトアップされたパトゥーサイはひときわ目立つ存在で、我々のヴィエンチャン到着を祝福してくれているようだった。
ヴィエンチャンの中心部を抜け、トゥクトゥクは大通りから一本裏道に入った通りで止まった。あたりは静まり返っているが、乱雑に並んだ自転車やところどころに見える灯りのついた窓の雰囲気から安宿街であることはわかった。
トゥクトゥクを降りたはいいが、トゥクトゥクの代金をどうするかをまったく考えていなかった。運転手に値段を聞くとそれほどの金額でもないが、我々外国人たちは割り勘をしようということになった。だいたい一人100円くらいだという。
「細かいキープ持ってないな…」
私もワカナミもラオスキープを両替してはいたが、細かい金額の紙幣を持ち合わせていなかった。話し合った結果、ひとまず私がまとめて全員分の代金を払い、それぞれのグループからキープをもらうことにした。ただ、オーストラリア人たちのグループはちょうどいいキープ紙幣を持っていなかったようなので、米ドルで支払いしてもらうことにした。私は米国には十年以上行っていないし、近々行く予定もないが、米ドルが使えなくて困ることはないので快く受け取った。
ベトナム・ラオスの国境、いや、それより前のハノイを発った時から旅をともにしたオーストラリア人たちとはここでお別れだ。
「グッドラック。シーユーアゲイン。」
そう言って彼らは彼らの宿へと入っていった。
投宿
さて、残った我々と日本人男性氏、それからフィリピン人女性はこれからここで宿を探さなければならない。ただ安宿はたくさんあったので、難なく泊まれそうな宿をすぐに見つけることができた。
薄暗いフロントでラオス人のおじさんが我々に英語で部屋の説明をしてくれた。4人部屋だが、一人一泊30,000キープほどで宿泊できるとのことだった。日本円にして約500円だ。我々はここの宿に泊まることにした。我々4人は私とワカナミを除けばきのう出会ったばかりの旅行者同士だったが、国境でのトラブルを経て不思議な友情が生まれていた。
窓際にベッドが3つあり、そこに日本人3名、少し離れたベッドにフィリピン人というベッド割になった。ベッド割が決まるや否や、我々はすぐにベッドに横になった。私とワカナミは広州以来の動かないベッドだった。
ベッドが決まってからはそれぞれが自分たちの時間を過ごした。ワカナミはたばこを吸いに行ったし、フィリピン人女性は先にシャワーを浴びに行ったようだ。私と日本人男性氏は二人きりになったがしばらく各々の荷物の整理をしていた。私はあまり海外で日本人同士で群れたくないという気持ちがあり、おそらく彼も一人旅をしているくらいなので同じだろうと思っていた。
「明日はどうします?」
「明日はヴィエンチャン市内を回ってしばらくヴィエンチャンにいるつもりです」
「何泊か滞在するんですね。」
「もうすぐヴィエンチャンは離れるんですか?」
「もう一泊してからルアンパバーンに行く予定です」
彼は我々よりも時間に余裕があり、ヴィエンチャンの滞在もゆっくりと時間を取るようだ。我々に与えられたヴィエンチャン滞在の時間は明日1日のみである。彼には彼の、我々に我々の旅があり、それはどこかでは交わることもあるが、完全に同じものになることはない。そんな気がした。彼は荷物の整理が終わり、シャワー室へと部屋を出て行った。入れ違うようにワカナミがたばこから帰ってきた。
真夜中のフォーショップ
「夕ご飯探しに行く?少し行ったところならお店ありそうだった」
「なんかスナックでも売ってるお店があればいいな。ちょっと出かけるか」
そういうと、身の回り品だけを入れたバッグを肩に宿の外へ出た。あたりは暗かったが、幹線道路が近いらしく、静謐というわけではなかった、かといって喧騒というわけでもなかったが、異国の首都で過ごす夜はなんとも言い難い雰囲気だった。
「あそこご飯食べられそうじゃない?」
私は軽食をコンビニのような商店で見つけられればいいと思っていたが、ワカナミが指さす方角には立派な食堂が軒を構えていた。まだ灯りはついており、店の人も暇そうではあったが、客を迎え入れるような雰囲気を醸し出していた。
「ここにするか。サーバイディー」
ラオ語で挨拶をして店内に入るとまだ営業をしているらしく、我々二人の異邦人を快く迎え入れてくれた。メニューを見るとフォーのお店のようだ。ベトナムを出国して半日以上が経つが、昼の休憩もフォー、夕ご飯もフォーと、完全にベトナムから抜け出せてはいないような気がしてきた。
我々はそれぞれ好みのフォーを選び、ビアラオで乾杯をした。ビアラオはラオスではメジャーなビールなようで、どこにでも売ってあるようだ。まだ熱気が残るヴィエンチャンの夜で飲むビアラオは、国境でバスを待ちながら飲むビアラオと等しく美味しかった。フォーも飽きることはなく、美味しくいただいた。食べ終わる頃には12時を回っており、我々はすぐに宿に戻った。部屋では他の2人が既に床についていたので、我々は静かにシャワーを浴びに行き眠りについた。ラオス第一夜はこうして更けていった。
(続く)
旅程表
2018年9月17日 "我々の偉大な旅路" 4日目
ヴィエンチャン
午後9時40分 ヴィエンチャン 南バスターミナル に 到着
午後10時10分 パトゥーサイの前を通過
午後10時30分 Orange Backpacker Hostel に チェックイン
午後11時50分頃 Pho Huer Chao Kao (ເຝີເຮືອເຈົ້າເກົ່າ) にて 夕食
翌午前1時頃 就寝
(時刻はすべてヴィエンチャン時間)
主な出費
トゥクトゥク ??,??? キープ (複数名で割勘したため不明)
夕食 28,000 キープ (Pho Huer Chao Kao (ເຝີເຮືອເຈົ້າເກົ່າ) にて)
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