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「頭で知る」よりも「心で知る」を大切にしたい

 先週10月11日(日)のオンライン礼拝で、印象的なお話がありました。
 横浜国際バプテスト教会(YIBC)の礼拝です。その日はいつものベン牧師ではなく、ゲストスピーカーのDueker Davidさんがメッセージ(説教)を担当されていました。

↓YIBCのオンライン礼拝(バックナンバーも)はこちらでご覧になれます。

 メッセージの後半で、
 聖書の言葉やイエス・キリストについて、頭で知っているだけで、知っているつもりになっていないか? というような問いかけがありました。
 心で知ることを大切にしましょう、と。
(英語の話を聞き取りながら、日本語の通訳も聞く、という感じで拝聴していたので、頭の中が忙しく、表現は正確でないかもしれません)

 ほんとにそうだなあ、と思いました。ふだん私が感じていることに、ぴったりフィットする内容だったからです。

 日本では、クリスチャンの数は人口の1%未満と言われています。そのわりに、キリスト教に関する本がたくさん出ているという印象があります。専門書は当然として、入門書とうたっているものも多数あり、もちろん悪いことではないのですが、〝入門〟したい人がそんなにいっぱいいるのかしら、と思ってしまうほどです。
 そうした書籍の大半は、キリスト教を「頭で知る」ために書かれ、編集されていると感じます。
 でも、頭で知る=知識を得る、ということが、「信じる」につながるかというと、必ずしもそうではありません。
「信じる」とは結局、「心で知る」ということなんだなあ、と、Davidさんのメッセージを聞いて思いました。

 そして、「心で知る」ってどういうこと? と、もし私が聞かれたら、どう答えたらいいだろうか、と考えました。
 個人的には、こう考えます。
「心で知る」は、「感動する」に近いかもしれません。

 たとえば、昨今アニメ化されて大人気の漫画『鬼滅の刃』。主人公の炭次郎の優しさと、それに裏打ちされた強さに感動した人は、少なくないでしょう。その感動は、「炭次郎はこういう人で、こういうエピソードがあって~」と説明されて「知る」のとは、次元が異なるもののはずです。まったく別種の「知る」であり、つまり、それが「心で知る」だと思うのです。

 ほかにも、美しい風景に心を打たれたとき、スポーツ選手が試合で頑張っている姿をはらはらしながら応援したとき、わが子が苦手な野菜をはじめて食べてくれたとき、絶望の底で誰かの励ましが骨身にしみたとき、大好きな人が笑ってくれたとき……などなど、私たちは、日々生きるなかでさまざまな「心で知る」をしているのだと思います。

 私の場合は、信仰についても同じようなことがいえます。
「インマヌエルって、主は共におられるという意味だよね」と頭で知っているだけではなくて、インマヌエルを信じることで、「いまイエスさまが一緒にいてくれて、心強いなあ」と思える瞬間がある。「どんなときも、私はひとりじゃない」と思うことができる。
 それらの原点は、イエス・キリストの愛への感動なのです。

 聖書を読んで、「頭で知る」を積み重ねるのも大事です。けれども私はそれよりも、イエスさまが大好きという気持ちや、神の愛への崇敬、それらを信じていたいという希望と意志、そうした「心で知る」を大切にしていたい。これからも、そうありたいと思っています。

◇見出しの写真は、みんなのフォトギャラリーから、scoop_kawamuraさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。

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