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洗礼を受けて変わったこと、変わらなかったこと ~クリスチャンとして生きる日々

 私がキリスト教(プロテスタント)の洗礼を受けたのは、40代の前半のことでした。早いもので、それから10年あまりが経ちました。

 洗礼について書いた↓こちらの記事のアクセス数が、最近、急に増えています。今年の4月に公開した記事で、タイムラインでははるか過去に沈んでいるものです。それなのに、合計アクセス数が増え続け、いまやページトップに固定している「食前の祈り」を超える勢い。不思議に思いつつも、喜んでおります。みなさま、ありがとうございます。

 この記事では、「実際、キリスト教の洗礼を受けるまでにはどんな手続きが必要なの?」というようなことを、実体験をもとに書きました。

 洗礼の意味などの情報は、キリスト教の入門書やWEBサイトで、わりと目にすることができます。でも、実際のところどんな感じで手続きが進んでいくの? という経験レベルの情報は、圧倒的に不足していると感じていました。
 きっと知りたい人は多いだろう。そう考えて、書いてみた記事です。すでに洗礼を受けたクリスチャンでも、他の教派のことは知る機会がなかなかないため、興味のある人はいらっしゃるだろう、とも。
 その記事を、見に来てくださる方が多いということは、やはりニーズがあるのですね。

 そこで、今日はその流れで、洗礼を受けたあと、変わったことと、変わらなかったことは何かなあ、と考えてみます。

 結論から言うと、実生活は、たいして変わりませんでした(笑)。
 教会には、洗礼を受ける前から通っていましたし、通常はそういう準備期間があるからこそ洗礼を受けられるという順序なので、受洗後もそれまでどおり※、その教会に通います。(※教会生活では現実の面でいくつか変化があります。それは後述します)

 自宅でお祈りをするかどうか、クリスチャンであることを周囲の人にカミングアウトするかどうかといったことは、それぞれの自由なので、人によって変化の度合いは違うと思います。
 私の場合は、洗礼を受ける前(教会に通い始めた時期)から自宅で祈っていましたから、受洗前と受洗後で、そんなに変化はありませんでした。強いて言えば、食前の祈りが照れずにできるようになり、しっかり暮らしに定着したのは、受洗後だったと思います。

 上の記事でも書いたとおり、神さまの愛は太陽の光のように、クリスチャンであろうとなかろうと、誰にでも降り注いでいると私は考えていますから、「洗礼を受けたから救われた」とか「洗礼を受けたから神さまに愛された」とか、そういう意味での変化はまったくありませんでした。

 変化したのは、「今日から私はクリスチャンだ」と思えること、「私はクリスチャンです」と公言できること、その喜びです。
 それがいちばん大きな変化というか、実りでした。(ノンクリスチャンの方にわかりやすいように「実り」と書きましたが、自分的には「恵み」と書くほうが実際の心境に近いです)

 少し前振りしたとおり、教会生活ではいくつか変化があります。(あくまでも、私が経験したプロテスタント教会の例です。教派や教会によってさまざまだろうと思います)
 受洗後は、その教会にクリスチャンとして「教会籍」が置かれ、「所属している」状態になります。部活動でいえば〇〇部の部員、というのと同じように、〇〇教会の教会員、と呼ばれます。

↓教会籍について詳しくは、こちらの記事をご覧ください。

 教会員になると、受洗前はゲスト扱いで免除されていたことを、教会員として果たしていくことになります。
 ひとつは月定献金。あらかじめ自分で決めた定額を、毎月、教会に納めます。私の経験では、金額はほんとうに無理のない額を自分で申告できました。また、献金を納められない月があったとしても、厳しい集金などはありませんでした。この点は、受洗する前に説明があるはずなので(なかったら質問して確かめたほうがいいです)、もし納得できない仕組みだったら、他の教会を当たって比べてみるのも方法だと思います。

 もうひとつは、奉仕。教会を維持運営していくために、自分のできることをして貢献します。たとえば、礼拝の受付係が当番制で年に1~2度まわってきるなどです。
 そのほか青年会、婦人会といった集まりや、バザー委員会、会計委員会、図書委員会などの委員会に誘われることもあります。
(基本的に強制はされない前提ですが、人手不足の教会が多いので、受洗したとたんにいろいろお誘いを受けることも。往々にして「断っていいのよ」と言われるわりに断れない雰囲気があるものです。でも、それが負担になって実生活が続けられなくなっては元も子もないですから、無理な場合は断りましょう。いまは無理でも、死ぬまでクリスチャンでいるのだから、できる状況になったときにお手伝いする、という考え方でいいと私は思います)

 以上は、受洗した教会にそのまま通い続ける場合のお話でした。
 実際には、さまざまな事情で教会には行けなくなったけれど、キリスト教は信仰している、というクリスチャンも少なくありません。私も現在は、所属している教会にあまり行けていません。
 教会は学校ではありませんから、礼拝に出なくても〝退学〟になりはしませんし、その人がクリスチャンでなくなることもありません。
 信仰は、原点的にはそれぞれの人の心にあるもの。
 そして、日々、暮らしの一瞬一瞬をクリスチャンとして生きることが、信仰の実践だと私は思っています。それは、ざっくり言えば、誠実に生きようとすることですね。
 かといって、教会につながらなくてもいいかというと、そうでもなく、私にとって教会は、日々の信仰を支える場であり、信仰の実践の場のひとつでもある、といったところでしょうか。

 今年、いろいろな教会がオンライン礼拝の配信を始めました。おかげで、スタンドアローンで信仰を守っていた〝はぐれクリスチャン〟たちも、全国各地の教会の礼拝にあずかれるようになりました。
 これを機に、教会のあり方や、教会とクリスチャンとのつながり方は変化していくでしょう。物理的な距離を超えて、新たな関係やネットワークが生まれ、時代に合う奉仕の形や役割ができてくるかもしれません。楽しみですね。

 いずれにしても、そのなかで、私はクリスチャンとしてまずは自分の日々の暮らしをしっかりと生き、自分にできること(=情報発信)を続けていこうと思っています。


◇見出しの写真は、みんなのフォトギャラリーから、もとき(motokids)さんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。

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