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意思決定というもの


多次元

左に合わせれば右と合わず
右に合わせれば左と合わず

上に合わせれば下と合わず
下に合わせれば上と合わず

熱を上げて前に出れば、煙たがられ
熱を冷ますために奥へ、読書や執筆、和服を着ること、音楽をしていると、何も寄与していないと後ろ指を指され

明日や来月、来年といった未来をおもえば、何事も挑戦して地道に歴史のページをめくる努力をするしかなく
過去からいま現在までの現状維持でよいのであれば、誰しも不平不満を述べる理由がなく

 こんなときには田中芳樹の作品『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリーに倣い、「模範解答があれば是非とも見せていただきたいものだ。」と言うべきだろう。方向を定め意思決定しないことには右往左往どころか停滞である。これでは思考する葦から思考しない葦へと退化するようなもの。進化は意思決定にある。

 とはいえ願いの中間地点はどこにあるのだろうか。それを考えてみると結局のところ、失敗を恐れず試行錯誤するために自ら立ちあがり、自らの意志に基づき、自らを提示してあれやこれやと意見交換してゆっくりでも革新してゆくしかないんだよね。自由民主主義の理念、八百万の神々の精神に等しく。

 他者は他者なりの軌跡を経てその場に至るから、まったく同じ過程や結果である必要はない。むしろ他者のことまで考え出すと、未成年はともかく過保護といわれるだろう。まあ親が子をおもうことや老人たちが後世に希望の灯を託すようなものか。
 これは時空間座標の相違というと簡単だが、心理学でいえば、TEA(複線径路等至性)が適中だろう。このTEAを人の数だけ並べ、個々人の時間軸をずらして交差点を結べばよい。縁という交差点に至る軌跡、またその対象の個性を描けばいい。

 希望も絶望も否応なく拡がるのだから、自分のしたいことを追究すれば勝手に周りは「私も希望を描こう」と感化される。感化されない者は変化を望まない者なので気にしても仕方がない。これは人の発する縁のわざ、神妙な神社や自然豊かな公園などは気に疎い者でも感じるものだ。まあどちらも太極のように合わせれば同じこと。


公共の時空間

 ある師たちは「自らのことばで、なるべく平易なことばで相手にもわかるように置き換えて話しなさい」という。ごもっともな意見だ。であれば老人が子どもに御伽噺や神話を伝えるように言い換え、つまり比喩を用いていくことが単純明快だろう。

 普遍的でなく特殊なことを提題するとき、インターネット空間は不特定多数の場であるから、全員に理解されるように書こうとするとたいへん説明的で面倒であり、多数からは「回りくどい」とされる。また、ごく一部の者に対象を絞ると多数からは反感または「何を言ってるかわからない」となる。普遍的ではないことを提題すると多数からは必ずそれらの見方をされ、その提示内容にたいして同水準程度の理解ある者か、理解しようと志す者でなければ話は合わない。カレーの具材に何を使いどう料理するか、家々でまったく異なるようなもので、生い立ちや職業、趣味、性向などがそもそも違う。

 革新的・創造的なことは常に個人から生まれるが、拡がるまでは一観念に過ぎないから理解されないことが普通だ。たしか図書館にあったが心理学者A・アドラーの翻訳本表題にも似たような言葉があった。『嫌われる勇気』

 たとえば楽曲を初めて仲間たちと公演したとき、墨に五彩あるというとき、ちょうど一世紀前までは霊や共感覚といったものが科学・文化の最先端であったというとき、勝利を譲ってよかったというとき。


話題提供者

 前向きな者や何かに打ち込む者が減ると町に活気がなくなり、この世が実は天国であっても地獄となる。悲観的になるべきはせいぜい自らの至らなさに向けられるものであって、他者のうちに自らを投影した自己、ドッペルゲンガーをみて対立する。ドッペルゲンガーについての考察の元は、15年ほど前の高校生時代にインターネット上で読み漁ったものと蔵書のどれだったかを内包して考えたが、たいてい自己投影または分離である。近いものに多重人格があるが、ドッペルゲンガーと共存することができれば病としてではなく正常な多重人格になるのだろう。

 話題提供者はその創りだした枠組み、箱の中において創造主である。ただもちろん上には上がいるから法、最終的には自然に還元されるものが望ましい。この「note」では創始者の下に個々人の投稿がある。ノートという意味からして個人の思索をインターネット上に書き記すものを主として、従に他者交流がある。たとえばYouTubeなどSNSの話題提供者を見てみると以下の4つあたりだろうか。

  1. 共感を求め述べている

  2. 他意なく素朴にそうおもい述べている

  3. ただ単純に話題提供として行っている(フィクション問わず)

  4. 反感・共感問わず問題提議として行っている

 一世紀前のある学者曰く「学者は芸術家のように創造的でなければならない」という。であれば1だけを求めるのではなく、それ以外に基づいたものを含めればいいのであって、創作活動やクリエイティビティといった未知への開拓行為といえる。学者といっても教授や研究者のみを指すのではなく、学ぶ者と言い換えたほうがいいだろう。


自発行為

 私一人の損得、未来をおもえば、安全なところに行き誰のことも顧みず自分のためだけに好かれる意見をすればいい、というより旅に生きればいいだけなので、あえて不興を買うことはせず、その社会の善人像の仮面をつけてそれ以外は諦めたりやめることがたいへん楽だ。
 しかしその判断は、時空間を問わず縁あるものすべてに申し訳なくおもう。去年尋ねられたが、「なぜ嗤われているのに言い返さないのか」と問われたことがあった。私は何も申し上げなかったが、相手の懐いた一観念は紛れもない一つの事実であり、遺憾ではあるがそれは私の不徳から生じたのだから甘んじて受け入れなければならない。私は相手のことを全く知らないので、なるべく平和的に事を収める中間地点としての反論を思いつかないことにある。私は言葉が鋭い性分なのであまり発したくないし、話題提供の部類が下記を含むし変人の類であるから好意を持たれようと思わない。好き嫌いは個人個人が勝手に懐くだけだ。まして、あえて自らも同じ土俵で怒りを売りつける必要はない。キリスト的対応とでもいうか、日本人観もそんなものだろう。私も金気の性分なので仕方ない。


 私は時折、宗教や呪術、霊性、神、気といった国内一般的に忌避傾向にある題材を対象とする。これらの話題対象にたいして反感されることは現代日本においてまったく普通な反応だが、共感のうちでも神格化の類は歴史が証明するように、独裁者を生み出す行為なので慎まねばならない。これは科学でもまったく同じことで、多数が言っていることは正しいとはかぎらない。
 呪術や妖術とされたものが科学の式に組み込まれてきた歴史のように、徐々に浸透させなければ宗教戦争や妄想から無用な争いへと派生する。


結び

 譲れない・守りたいものがあるのなら、常識や普遍的なことに疑問を懐いたほうがよい。それらは常に書き換えられ社会集団によっても異なるものだ。国家精神は自由民主主義なのだから、老若男女貧富清貧問わず参政権は一票あり、みな等しく対等な者であり、人の数だけ信念や思考様式、縁といった個性がある。警察国家や全体主義、権威主義ではないのだから、良い失敗を重ねることはいくらでもできる。


紹介 「君が代解釈考 日本民族思想の片鱗」
7月にウェブサイトで投稿したもの


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