もやもやとの付き合いかた


「もやもや」は不快で不安定なもの、嫌なものと受け止められやすい。
できるだけ日々の思考をクリアに明瞭に保ち、安定して生きたい気持ちがそう思わせるのかな。
もやもやと無縁にスッキリ健やかに生きていけるなら、たしかに爽快そう。
しかし、もやもやは突然やってくる。ピンポンも鳴らさず土足で心に上がり込んでくる。そして居座る。けっこう長いこと。


「もやもやとのお付き合い、どうしよう。ずっと私んちにいて出てってくれないの」
「なに言ってんの、もやもやなんてあんなハッキリしない奴さっさと縁切っちゃいな」

(こんな感じ?)

自分自身のもやもやだけでなく、他者のもやもやも「嫌なものあつかい」されやすい。
たとえば親しい友人や知人がもやもやとしていたら、解決してあげたいと思う気持ちもごく自然なことだと思う。
話を聴き、適切なアドバイスをし、はやく胸のつかえをおろしてあげたい。
スッキリさせてあげたい。もやもやを晴らしてあげたい。と。

自分自身あるいは誰かの「もやもやを解消したい」と思う気持ちは、ストレス解消欲求のあらわれのひとつだ。

では、もやもやを迅速にサクッと解決できたらそれにこしたことはないのか? 
どうもそうでもないらしい。
スピード解決(したように見える、もやもやクリア現象)が、真の課題解決から遠ざかる場合があると思う。

数年前、対人援助サービスをしていたころ「よかれと思って」相手の課題の早期解決にやっきになっていた時期がある。そんな鼻息あらい私にくれた、あるベテラン心理カウンセラーの先生の言葉が忘れられない。

「もやもやを感じても、解決を焦らないことが大切です」

焦らないというのは、時間を大切にとか、ていねいにとか、そういう主旨かしらと、意図を思いあぐねている私に先生は続けて言った。

「話を聴く側が、モヤモヤを短縮して相手の課題解決に走ろうとするのは、かならずしも、話す側(クライアント)のことを思った行為ではありません。多くの場合、話を聴く側のストレス耐性が低いからです」

解決を急ぐのは相手を思いやった心理ではなく、その裏にひそんだ【自分自身のストレスを解消したい】エゴに気づき耐える力をつけること。
「もやもや」=「ストレス」に対する耐性をつけることが大切だ、と。

「もやもや」をある程度保持できる人は、ストレス耐性があり、
「もやもや」が苦しく解決を急ぐ人は、ストレス耐性に欠けるという。


もやもやを抱える人の役に立ちたい! 
すみやかに課題解決してスッキリした気持ちで生きるサポートをしたい!
相手に笑ってほしい!とあつくるしく前のめりな私のみぞおちに的中した。
独り善がりだったんだな。

その後私は対人援助の仕事からライターに転向したが、当時の心理カウンセラーの先生から学んだことはいまも生きている。
どんな仕事でも他者とのコミュニケーションが発生し、スッキリはっきりクリアな関係ばかりではないからだ。
たとえ人との関わりを断ったところで、自身のなかに生まれるもやもやはなくせない。先生の言葉「もやもや耐性をつける」についてときどき考える。教わってよかったなあ、と思う。先生は今も第一線で活躍されている。


最近また、その言葉を飴玉みたいにころころ転がしていたら、ふと「いなす」という言葉が浮かんだ。

「いなす」は、日本最大級のボランティア支援組織「ふんばろう東日本支援プロジェクト」をつくられた西條剛央さんの本で見つけた言葉だ。
3.11の悲劇を教訓に、想定外の津波対策として西條さんは「いなす」考え方を提言されていた。
どれほど巨大で頑丈な防波堤をつくっても「想定外の原理」により、想定外の津波は起こりうる。ならばどうするか、というもの。

津波を「いなす」津波防災都市構想

南三陸町に初めて行った日、被災地の海岸線を100kmくらいたどりながら思ったのは、「津波は止められない」ということだ。巨大な防波堤があちこちで破壊されていた。
  (中略)
今回明らかになったように、想定外のことは必ず起きるのだ。
これは「想定外の原理」と言っていいほど確かなことであり、常に想定外の高さの津波が来ることを想定しておかなければならない。
  (中略)
たとえば、仙台平野のような場所ならば、所々に流線型の高層建築物を、オーシャンビューのように海に平行に建てるのではなく、先端を海に向けて建てる。津波が届いても「いなす」という発想だ。一撃で防波堤を砕く津波の威力は凄まじいが、うまくエネルギーをいなして、分散させられるような形に設計してやれば、最小限のダメージですむはずだ。

『人を助けるすんごい仕組み』P.288〜 
津波を「いなす」津波防災都市構想 より引用


本で出会ったこの「いなす」という言葉が気に入って、心のなかでたまにつぶやいている。いなす。いなす。いなりずし。否。いなす。

「いなす」という言葉には「攻撃をかわす」という意味がある。

もやもやを、気持ち悪く感じるのはごく自然なことだ。
かといって、気持ち悪さを解消しようと、もやもやからのアタックを迎撃したくとも、与えられた命の時間をもやもやに向き合いつづけるのは日常生活にさわりそう。眉間のシワ増えそう。

自分の「想定外」(いまの理解を超えること)は、きっとこれからもたくさんある。たくさんではないかもしれないが、一定の確率で起こる。誰にも避けられない。なので、もやもやを「いなす」。

想定外のもやもやが立ち現れたら、いったん「ふーん」といなしてみるテスト。

【柔よく剛を制す】みたいに。揺れるヤナギの枝みたいに。
「あー、もやもやしてるな今」と淡々と、もやもやをいなす。

もやもやに常に正攻法で戦い続けたら「あー理解できない!」と、不快な感情の波にのみこまれてしまうかもしれない。
もやもやにも実は種類があり、濃淡があり、いろんなキャラのもやもやがいる。悪いやつばかりじゃない。
「それで、あなたは本当にいいの?」と自分の幸せの軸をブラしている人に投げかける超重要な役割を担った、未来の自分に感謝されるタイプのいいやつもいる。
ほとんどの人は幸せに生きたい。
「幸せ」の定義は人によって違えど、幸せに生きようとするプロセスで現れたもやもやに、感情を乗っ取られたくはない。

もやもやには、豊かな何かが隠れている。
未来の自分からの贈り物が、現時点では「もやもや・違和感」として立ち現れているだけ、ふーん、と。


ちなみに「いなす」は、モヤモヤした感情を「なかったことにして誤魔化す」のとは違う。自分に都合よく解釈して自己欺瞞(ぎまん)で「はぐらかす」のとも違う。

たとえばこんな想像。

ティンカーベルくらいの大きさの羽根の生えた自分が、頭上15cmななめ上から自分を見下ろす。

「あら、もやもやしてるわ」

ティンカーベルな自分の想像がちょっとアレなら、幽体離脱した自分が天井から見下ろすでもいい(?)。

「おお、もやもやしてるぞ」

「自分」と「もやもや」を切り離すことで、客観、俯瞰しやすくなる。
すこし冷静になれる。

このもやもやと、しばらく付き合ってみるか。
いつか、わかるかもしれない。わからないままかもしれないけど。
何かを解決したがる「もやもやする自分」は、生きたい気持ちにつながっている。無理せず見守ってみようか。焦るとよけい苦しいだろうから。

モヤモヤをいなすうちにいつか、ひょんなタイミングで「あ、そうか!」がやってくるかもしれない。
そのプロセスをも楽しめる姿勢が、学びの本質かもしれない。

「もやもやする自分」にも「もやもやしている誰か」にも、そっかモヤモヤしてんだねOK、と肯定ファーストを。
無関心ではなく、立ち現れた感情をただそこにいさせてあげるよ。

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