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本好きサービスデザイナーが考える「エッセイの魅力」

『目をあけてごらん、離陸するから』『壇蜜日記』『ビ』『35歳からの反抗期入門』『悲しくてかっこいい人』。これらは最近私が読んだ本たち。そう、私は今、エッセイにどハマりしています。

こんにちは。サービスデザイナーの高階です。私はこれまで俳優、デザイナー、アーティスト、アスリートなど、様々な方のエッセイを読んできました。幼少期の頃からさくらももこ氏のエッセイを読み漁ることで本と仲良くなりましたし、多感な思春期には小説家である三浦綾子氏の自伝『道ありき』を通して「生き方」を考えたりしたものです。

最近は寝る前にハライチ岩井氏の『どうやら僕の日常生活はまちがっている』を繰り返し読んでいます。一見どうでもいいことを面倒くさいほどに思考しておられます。最高です。

Goodpatchには本好きのデザイナーがたくさんいて、僕もその1人です。小説も、ビジネス書も、そして哲学や倫理のようなちょっと難しい本も読み漁ります。けれど、最近改めて「やっぱり僕はエッセイが好きだな」と思うんです。「いやいやいや、エッセイってめちゃくちゃ素敵やん!」という気持ちが高まっている…とも言えそうな今日この頃です。

この記事では、noteマガジン「UXデザイナーの自由帳」の「自由」という部分を拡大解釈させていただいて、エッセイの魅力について偏愛たっぷりに語っていこうと思います!ただし「エッセイってデザインに通じるところがあるな?」なんて思ってもいるので、そんな要素も散りばめられたらな……。

それでは皆さま。ようこそ、エッセイの世界へ。


そもそも、エッセイって何?

さて、皆さんは「エッセイ」にどんなイメージを持っていますか?

例えば「カジュアルで読みやすい日記のようなもの」と答える人もいると思います。もちろん正解。難解な言葉で綴られたエッセイも存在しますが、その多くは限りなくカジュアルな文体と言って差し支えないかと思います。

それこそ、有名どころとして挙げられるのはさくらももこ氏かと思いますし、最近だとオードリー若林氏のエッセイも人気ですよね。若林氏のそれは、きっと人からはどうでもいいと思われそうな、でもみんな(少なくとも僕は)ウジウジ、ネチネチ考え込んでしまうようなエピソードが綴られていてクスっとしてしまいます。

「エッセイ」に似た概念として「随筆」「私小説」などもありますね。やはりこれらに共通するのはプライベートな香り。個人の体験や思考を、肩肘張らずに書いたものであり、自然とカジュアルな文体が用いられがちなんだろうなと捉えています。

カジュアルだけではない、エッセイの奥深さ

ただ、その「カジュアルさ」に気を取られすぎてはエッセイの本質を見過ごしてしまう気がするんですよね。

そこで、そんな僕の想いを端的に表してくれた文章があるので引用してみたいと思います。

まず紹介したいのは清田隆之氏『さよなら、俺たち』の一節。この本のテーマはフェミニズム。過去の(時にはイタいとしか言いようのない)エピソードをさらけ出しながら、自分自身でジェンダーを見つめ直していくエッセイです。この中に、あるコラムを読んで感動したというエピソードがあって、それは例えば以下のように綴られています。

こういったエピソードの数々に、当時の私はしみじみ感動していた。(中略)。まるでその場に居合わせ、上原さんやこの女性たちと対話しているような気分になったからだ。思うに、感動というものの正体は、「そこに存在していた膨大な時間や感情の一端に触れてしまうこと」ではないだろうか

清田隆之『さよなら、俺たち』より

もう1冊紹介したいのは、僕の大好きな文筆家である高橋久美子氏の『一生のお願い』。何でもないような日常が綴られた本書の中で、高橋氏は次のように述べています。

流れていく日常を切り取って押し花にしたのがこの本です。もっと特別な出来事もあったはずなのに、書かずにはいられなかった、明日には消えてしまいそうな気持ち。書くということは何を見つめて生きるかなんだと

高橋久美子『一生のお願い』より

僕はラインマーカーを引きながら本を読む習慣があるのですが、これらの文には漏れなく線を引きました。なんかグッときてしまって。普段読んでいるエッセイというものがカジュアルで読みやすい本という域を超えて「宝物」のように思えてきたのです。

例えば…という具体例を提示したく、僕にとっての「宝物」を挙げてみます。それは小説家である朝井リョウ氏が日常をほのぼのと(かつちょっと斜めな視点で)綴った『風と共にゆとりぬ』からの一節です。大人になってから出会う友だちについて語っているエピソードが僕は大好きです。

大人になってから私は、これまで自然発生してきた「友達」という存在が一切生成されなくなったことに気づいた。(中略)。お互いに担っている役割や利害を感じるより先に「この人とは気が合う」「仲良くなりたい」と思える人に出会ったとき、私はひどく高揚する。あまりにも久しぶりの「友達発生」という現象の尊さに、くらっとくるほど嬉しくなってしまうのだ

朝井リョウ『風と共にゆとりぬ』より

エッセイとは「押し花」である

膨大な時間や感情の中から、その人ならではの感性や価値観で選ばされ、文章という形で真空パックにされた「大切なひととき」。高橋久美子氏が言うようにそれはまさに「押し花」なんですよね。エッセイとは、カジュアルという仮面を被った特濃文章なのです。

「エッセイは押し花論」をもう1つ具体例で示したい…ということで、俳優・片桐はいり氏の『もぎりよ今夜もありがとう』からの一節を挙げます。

若かりし頃に銀座の映画館で「チケットのもぎり」のアルバイトをしていた片桐氏。当時の劇場や仲間を懐かしむように、愛おしむように綴られたこの文章の素晴らしさはどうでしょう。どこか片桐さんっぽいと思わせる文体も相まって、その押し花感はとんでもない。

もしも今、海水浴の最中に人食い鮫に襲われたなら、浮かんでは消える走馬灯の画の中で、あの頃のわたしたちの笑顔がひときわ輝くだろう。ブルーのうわっぱりを着てチケットをもぎるわたしと仲間たちの、悩みなき、とびきりの笑顔が

片桐はいり『もぎりよ今夜も有難う』より

エッセイを通して、僕はその人たちが過ごした膨大な時間や感情の一端を覗かせてもらってきました。けれどそれは単に覗いただけでなく、きっと「覗かせてもらった一端」と「自分の過ごしてきた膨大な時間や感情」とを照らしながら、自分にとっての今や過去の日常に対して思いを馳せて、愛しんできたんだろうなあ…なんて思います。誰かの押し花で、僕にとっての押し花が(自分の中に)作られる。だからこそエッセイは僕にとって宝物なんです。

膨大な時間や感情を丁寧に掬いあげるのは、デザイナーもそう

ここまで僕の偏愛をたっぷりとお届けしてきたのですが、実は「膨大な時間や感情を丁寧に掬いあげる」ということ自体、それってまさに(特にUX)デザイナーの大切なスタンスなんですよね。
私たちUXデザイナーは、ユーザーインタビュー等を通して「どんな時にどんな行動をとっているのか」「その時には何を感じているのか」を徹底的に理解しようとします。インタビューの時間は限られるし、お聞きできる内容も限られているのですが、向き合っているのはその人自身であって、その人にとっての時間や感情なんですね。

もちろん、いわゆる「共感」に終わりはないし、その人と同じ世界には立てません。けれど、その人自身が言葉にできなかったことを、私たちUXデザイナーが知覚して言葉にするという形で「その人と同じにはなれないけれど、その人以上にわかっている」という域に達することもあるのです。インタビューさせていただいた方から「そうそう!そうなんだよ!」と言っていただくことがあって、「デザイナー冥利に尽きるなあ」なんて感じます。

このように、エッセイのように押し花は作らないけれど、「膨大な時間や感情を丁寧に掬いあげて、何かしらの意味付けをするというプロセス」としては、かなり近しい、と(勝手に)思っているのですが、いかがでしょう。

そして、そんな「誰かに対する共感」という観点でも大好きな一節があったなと思い出したので紹介させてください。こちらは小説家・角田光代氏の『幾千の夜、昨日の月』からの一節。「夜」をテーマにしたエッセイ集で、その心細さを抱えた人たちに思いを馳せる大好きな文章なんです。

夜はときとして、私たちがひとりであることを思い出させる。銭湯からの帰り道、父も母もいるのにひとりぼっちだと感じた、あの幼い日の気持ちは、夜というものの持つ本質だったような気がする。夜は否応なく、私たちがひとりであると気づかせる。(中略)。とくに都会の夜がどんどん明るくなっていくのは、たぶん、そのことを気づきたくない人が大勢いるからだと思う

角田光代『幾千の夜、昨日の月』

ということで

エッセイの世界はいかがでしたでしょうか。

少しでも「エッセイを読んでみよう!」と思っていただけたのであれば至上の喜びです。誰かにとっての押し花は、きっと皆さまにとっても「ご自身の時間や感情を振り返り、何かに想いを馳せる愛おしい営み」を生むのだと信じています。もちろんそんな大袈裟なものじゃなくて「面白そうだから読む!以上!」でも素敵です。

そして、あわよくばUXデザイナーという生態についても興味を持ってくれるとなお嬉しいなあ…なんて思っています。誰かの素晴らしい体験に繋がるような何かをこしらえようと、あの手この手で最善を尽くしている人種です。このnoteマガジン「UXデザイナーの自由帳」の他の記事を覗いていただけると「あの手この手感」を感じていただけるかもしれません。よろしければそちらも是非。

長文にわたり、お付き合いいただきありがとうございました!

おまけ:僕の一番好きなエッセイ

そこそこ長い記事になってしまったので、思いっきり自分語りをする余裕もなく、ならば最後に書いてやろう!という魂胆です。もしよければあと少しだけお付き合いください。

さくらももこ氏のエッセイ集はどれもこれも大好きなんですけど、1つだけ挙げるならば『たいのおかしら』の中にある『二十歳になった日』というエピソードです。

さくら氏が20歳になった日に、静岡市内の街角に立ち、まっすぐに続く道をまっすぐに歩いてみた、というお話。

私はひとり、静岡市内の街角に立ち、まっすぐに続く道をまっすぐに歩いて行ってみようと考えた。(中略)。見知らぬ商店街に出ていた。自分の見知らぬ街でも、毎日そこでは人々の生活が営まれている事を、あたりまえだが尊いと思った。全てがいとおしく感じられた。古い看板も電柱も学校も、どうしていいかわからないほど有難かった。公園に、日が差しているだけで泣きたいぐらいうれしい。(中略)。生きているだけでよかった。そう考えるのではなく感じていた。(中略)。二十歳になるあの日の、あの時間の感覚を私は一生忘れない

さくらももこ『たいのおかしら』より

このエピソードを読んだ小学生の僕は、まだよくわからない感覚ながら「いつか同じことをしてやろう」と思ったのです。そして実際それと似たようなことを20歳になる日に決行して、その「尊い」とか「ただそれだけで泣きたいぐらいうれしい」という感情を味わうことになりました。

やはり僕も一生忘れないだろうと思いますし、そんな大事な幹のような感覚をいただいたこの本にはとても感謝しています(と同時に「あの時間の感覚を私は一生忘れない」の「一生」はすでに終わっているんだな…と、彼女の不在をちょびっと寂しく感じてしまいました)。

皆さまにとっても、きっとそんな本があるのかもしれませんし、今後出会うのかもしれません。僕もまだまだそんな本に出会っていたいものです。それでは今度こそ、お付き合いいただきありがとうございました!

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