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【おすすめの本】『エルサレム』(ゴンサロ・M・タヴァレス 著、木下眞穂 訳、河出書房新社、2021)

おすすめの本の紹介(読書感想文)です。

『エルサレム』(ゴンサロ・M・タヴァレス 著、木下眞穂 訳、河出書房新社、2021)

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主人公のミリアという女性がいかに転落していったかというーー”暴力的な美貌”の持ち主だったミリアが、精神を病み、結婚生活も破綻し、精神病院で不貞を働いて子を生み、断種手術を受けさせられ、自分の息子を殺した男を誤って射殺し、医療刑務所に入れられるーー、太宰治の『人間失格』を連想させる物語。

でも、ミリアは転落したのではなく、転落”させられた”のではないかーー救われたいがために何かを信じてしまう、弱い人間(わたしやあなたのことですが)の持つ悲しい性を徹底的に利用する、利己主義と自己保存性(不可逆性=下剋上が起きない状態を保つ)が特徴の権威/権力(勝ち組)によって。

権力は、自らが正しい、まともだと考える世界観に適応できないひとを、異常だと考える。そして自分たちには、異常な彼らを正常にするために教育や治療をする権利が与えられていると本気で思っている(職業的信念のレベルにまで内面化されている)。そのときに助けになるのが、異常なひとたちにも備わっている「不完全な自己を擲って救済を求める性」である……

作品のタイトル「エルサレム」は、物語の中に出てくる、聖書の詩篇の一節(137章5-6節)

エルサレムよ
もしも、わたしがあなたを忘れるなら
わたしの右手はなえるがよい。
わたしの舌は上顎にはり付くがよい。
もしも、あなたを思わぬときがあるのなら
もしも、エルサレムを
わたしの最大の喜びとしないなら。

から取られていますが、こうした美しい信仰心が、同時にプライバシーや自由を明け渡し、奴隷のような弱みをも作りだしてしまうのは皮肉なことです。

だからと言って、何かを信じないでは生きてはいられない。
何者をも信じないひとは、そのうち自分自身をも信じられなくなる自己不信の地獄に苦しむことになるからです。

「さて……あなたはどうしますか?」

タヴァレスがこの小説を通してわたしたちに投げかける問いは、残酷なほどに難しい。
「信じろ、しかし信じるな」というダブルバインドに、わたしたちは容赦なく締め上げられる。

何を信じても、信じなくても、救われないーーわたしたちは「生は暗く、死もまた暗い」みたいな絶望の磁場(「支配するー支配される」の関係性)から逃れられないことを思い知らされるのです。

タヴァレスは、権威やカリスマ(アイドルとかヒーロー、SNSのインフルエンサーの類)が作り出す絶望の磁場の影響を受けないではいられない、誰もがミリアに”させられてしまう”現代をどう生きるかについての処方箋を示しません。
ある意味それは当たり前で、分かっていればわざわざ小説にしないーー論文やエッセイで発表したはずです。

それでもわたしなりに思うところを書くと

「プライバシーは守り抜け。自分が今何を考えているか、何を考えるべきだと思っているかなど、他人に簡単に明かしてはならない。(老獪かつ残忍な猟師に自分の習性を進んで教える無邪気なウサギやシカはいない)」

「御為ごかしなことを言って近づき支配しようとする権威は否定しろ。背中を向けられることが一番こたえるはずだから」

結局、権威から自由になるには、エルンストのようにアウトローに(少なくとも褒められたものではないように)生きるか、ミリアのように「つくられた狂人=被保護者」として生きるかしかないのかもしれません。どちらにせよ、地獄よりも地獄的な生き方ではありましょう……

権威(支配 または「エルサレム」)を中心としたシステムに無関係ではいられない人間の絶望的な性に真正面から取り組んだところに(この物語を読んで身につまされる思いにならないひとがいたら一度お目にかかりたい)、作者タヴァレスの天才があります。絶望を見つめる。なかなかできることではありません。

権威を持たない登場人物を精神病者に設定したのも工夫の一つです。
わたしたちのほとんどは精神病者ではありませんが、どこかの組織やコミュニティに属せざるを得ず、そこで権力を行使され続ける(システムに「適応」「順応」させられる)側である点で、精神病者と変わりません。
生まれながらの精神病者はおらず、医師(権威)によって精神病者に「させられてしまう」点でも。
インターネットが普及する前、FAXやテレックスやポケットベル(若いひとは知らないんじゃないかな、テレックスなんて)に驚き、メールを「電子郵便」と言っていた時代、情報弱者(情弱)なんていなかったようなものです。

何度でも読み返したくなる、読み返すことになるであろう『エルサレム』は、21世紀文学の古典となる資格を十分にそなえた、ノーベル文学賞くらいでは足りない(!)傑作であると賛辞を惜しまないものです。
おすすめします!

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