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なぜアイデンティティの苦しみから逃れられないのか〜依存論〜

現代を生きる人間にとっての苦しさの一つに「自己」についての苦しさがあります。自己をめぐっては「自己肯定」や「アイデンティティ」、「理想の自分」などさまざまな言葉が用いられますが、そのような悩みはそもそもなぜ存在するのでしょうか。

このエッセイでは哲学から理由を説明し、考えられる解決策を提示してみようと思います。

自分探しという言葉があります。旅などをして、さまざまな人との出会いから自己について学ぶという行為を指す言葉です。

実際に自分探しの旅に出ていなくても、ほとんどの人は自分とは何だろう?自分はどうあるべきだろう?という問いについて考えたことはあるでしょう。進学や就職活動、様々な人生の転機でたびたび直面する問いです。

このアイデンティティの問いは人類の誕生とともにずっと存在してきたのかというと、実はそうではありません。昔の人はわれわれ現代人のように人生の様々な場面でいちいち自分の人生を見つめ直して、どうすればいいのか?などと考えていなかったのです。

ではアイデンティティをめぐる悩みがいつ始まったかというと、「近代(modern)」と同時に始まったと言われています。哲学では、近代という時代はルネサンスをきっかけにはじまったとされます。

近代以前の中世はキリスト教の権威が非常に強かった時代です。平たく言えば、キリスト教の価値観が常識となっていた世界です。キリスト教ではこの世界は神様が創ったとされています。この世に存在するあらゆるものは神様が創ったものだと考えられていました。神様は完全な存在なので、間違いを犯すことは決してありません。つまり、どんな人間も動物もちゃんと理由があって神様が創ったのです。人間には分からなくても、神様がちゃんとその人がそこに存在する理由を知っています。そのため、自分探しなどするまでもなく、神様が存在理由を与えてくれる安心感があったとされています。

中世はこのように、この世に存在するあらゆるもの(存在者と言います)の居場所を神が保証してくれていると考えられたのです。中世まで皆の常識であったこの考えが崩れたのが、ルネサンスです。ルネサンスとは古代ギリシャの文化を復興させようという運動ですが、内容としては「人間を肯定する」思想であったと言われます(非常に簡単に言えばですが)。

哲学の中に美学という分野があります。その美学の第一人者である佐々木健一先生の『美学への招待』という本が大変分かりやすいのでご紹介します。

「西洋の近代を、わたくしは、純粋に人間的な文明の時代と考えています。純粋に人間的というのは、神様抜きという意味です。」(佐々木健一、『美学への招待』, 2004, 中公新書, p. 6)

近代になって、それまであらゆる価値観を支えていた神様を抜きにして、人間だけで様々な価値を創っていこう、人間にはそうする力があるんだ、という強い人間肯定の価値が浸透したのです。

このようにして、ものの価値を神様ではなく、人間が決めるようになりました。そうすると、それは人間自身にも適用されます。人間の価値を神ではなく、人間自身が決めるようになったのです。

ここに自分探し=アイデンティティの悩みが始まります。中世までは神が与えてくれていた人間の役割や価値を自分で創り出さなくてはならなくなったのです。そしてこれは病的な状況です。なぜなら「何にでもなれる」ということは「何になれば良いのか分からない」という悩みを産むからです。

ではアイデンティティの悩みを抱えるわれわれはどうしたら良いのでしょうか。

その答えも、近代という枠組みの中に現れていると考えられます。先ほど述べたように、自己の存在をめぐる悩みは、人間が自分で自分のことを全て決めなくてはならなくなったから生じたのです。これこそが近代における人間観の前提となったのです。

簡単にいうと「自分のことを親や先生に決めてもらっているうちは一人前じゃない。自立して初めて立派な人間になれる」という価値が全世界に広がったということです。

しかし、今見てきたように、それは人類史のある時点で偶然出現した価値観にすぎません。他人に頼らず生きていける人間などそもそもいないはずです。つまり、完全な自立という考え自体が病的で現実的ではないのです。東京大学准教授の熊谷晋一郎さんは、障害者の研究の中で、現代社会は障害者が一人で生きていけるように訓練・リハビリをするが、むしろ依存先を増やすべきだと述べています。

この主張は何も障害者に限った話ではなく、全ての人にも当てはまる議論ですので、アイデンティティの悩みに関する解決の糸口として考えてみましょう。

熊谷さんの議論は、全てを他人まかせにしろ、という議論ではありません。依存とは他人に全てを委ねるということではないのです。哲学者、國分功一郎さんの『中動態の世界 意志と責任の考古学』という本の中に依存についての哲学的分析が出てきます。

薬物依存症とはどのような状態でしょうか。依存症患者は「よし、今日もコカインを吸うぞ!」という意志を持って能動的に摂取しているのでしょうか。そうではありません。では、誰かに命令され、「コカインを吸わないと殺す」と言われ、受動的に薬物を吸わされているのでしょうか。これも違います。

依存している状態は、能動的な意志による行為でもなければ、命令による受動的な行為でもないのです。依存とは、「ついつい、そうしてしまう」ことです。

なぜ、依存することがアイデンティティの糸口になるのかというと、「ついつい、そうしてしまう」ということがアイデンティティの核になっているからです。

なぜなら「ついつい、そうしてしまう」事柄に関しては、自分の力で変えようがないからです。自分がどのような人間かは自分で決めるまでもなく、「ついつい、そうしてしまう」自分としてすでに形作られているのだと認識することが大事なのです。つまり、自分の依存性を認識するということです。

多くの自己啓発本などは依存は良くないと決めてかかっています。そのため、「ついつい、そうしてしまう」自分からいかにして脱却するかを力説するものが多い。しかし、依存すること=「ついつい、そうしてしまうこと」自体は悪いことではないのです。

問題は、依存が依存関係そのものを崩壊させてしまうケースです。薬物依存の場合、それは死であり、人間関係の場合では縁を切る/切られるということになるでしょう。ではどうすれば、破局に至らない健全な依存関係を築けるのでしょうか。それは依存先を増やす、複数化するということです。

つまり、自分の「ついつい、そうしてしまう」性質をいくつか発見することです。日常生活の中にはさまざまな依存が存在しています。寂しい時「ついつい、恋人に電話してしまう」場合、依存先を友達や親、兄弟、さまざまな相手に複数化することで依存が関係を破綻せさることを回避し、それぞれに健全な依存を作ることができます。親・兄弟と仲が良くないのならば、ネットで話し相手を探すこともできます。このように、「ついつい、してしまう」相手を複数化することが健全な自己であり続けるための糸口になるのです。

自己に苦しむ人の助けになれば。

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