自分が何者かでありたかったり、誰かのことをわかりやすい型や分類に寄せたかったりするのが私たちのサガだけど。

トマトジュースは好きだけどトマトそのものは絶対に食べられない人がいたり、その逆の人がいたりする。当たり前だけどどっちも好きな人やどっちも嫌いな人がいる。

ところで、もっともっと若い頃なら、自分と感性が同じ人のことを好きになれたり、違っている人のことは別に好きじゃなかったりしていたことはあったかもしれない。
人はみんな人それぞれだけど、自分と同じ感性を持っていて共感できたり、逆に全く共感できなかったりする。

世の中には「◯◯タイプ」とか「数字でいうと何番の人」という性格診断があって、さらにどういう人がどういう人と相性が良くて、逆にどういう人はどういう人とは分かち合えなくて……みたいな世界がある。
でも実際には人間、それしかないわけがない。
誰々さんと共感できる部分があって、かと思ったら「あれ?でも微妙に違ってるなぁ」って感じたりもする。
「時間にルーズな人って私ちょっと無理かも〜」っていう人がいてて、「だよねっ!私もそうなんだ!なんかそういう人ってちょっと無理だよねっ?」って意気投合したーって思って話をしてるうちに、確かに時間にルーズな人に対する意見がザックリ言えばおんなじなんだけど、話してるうちに、なんとなく自分と観点が違っていて、あれ?共感できるかと思ったら微妙にずれてた、、みたいなことはよくある話。
逆にもちろん、この人のこういうところ気が合わないわぁと思って坊主憎けりゃ袈裟まで憎い的にその人のことあんまりよく思ってなかったら、その人の中から自分と共感ポイントが、しかもその人と気が合わないと思っていたその内容の中に一理、共感ポイントがあったりすることがある。
感性が合う部分もあればそうではない部分もある、というよりは、感性が合う部分のその中に合わない部分があり、感性が合わない部分のその中に合う部分があったりすることは、矛盾していて理にかなっていないようだけれども、実際そんなことが存在するというのが人間の面白いところだ。
トマトはOKでもトマトジュースはNGだったりその逆があったりする事実が実際あるのに、そこへ「どっちも元は同じトマトじゃん」という理屈は通用しない。
そしてまた、トマトはトマト自体のあのニュルってするあの歯応えが苦手で、トマトジュースはそれがないから良いんだっていう論理も、みんながみんなそれに当てはまるわけないし、そしてそれだけなわけもない。
そんな単純なものだけなわけなくて、実はもっといろいろと複雑だ。
◯◯タイプの人というだけの人がいるわけなく、そんなふうに何かに分類、仕分けができるほど、人間は単純なものではなく、うまく説明できないけど、実際問題、もっともっと複雑だし曖昧だ。

誰かと話したり一緒にいたりしてて、その中に共感ポイントがちらっと垣間見えたりして幸せな時間で、でも次の瞬間そこに微妙なズレがあって、その人らしさとか自分自身らしさがフワッと浮かんできたりして、でもそれもまたそんなことを相手や自分に見出せるそのことが幸せな時間だったりする。
そこに好きとか嫌いとか良いとか悪いとかそんなんだけのことじゃなくて、そこに人の違い、人間の面白さを感じる。
自分が何者かでありたかったり、誰かのことをわかりやすい型や分類に寄せたかったりするのが私たちのサガだけど、実際問題、そんな単純なものじゃない何かが在る。
そこを何とかわかろうと悩み続ける過程も良いものだし、わからないままってのも良いものだ。
だから人間は深いし楽しい。

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