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「本来無一物」に学んだ生き方

今回は、数ある禅語・仏語の中で特に僕が好きな「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」という言葉について書きたいと思います。これは、僕の価値観の大黒柱ともいえます。

僕は、決して仏教や禅については専門家ではないので、自分が書いたことを決して「正しい」などとは考えません。しかし、この言葉について自分なりに思うところがあり、また、この言葉に出会ったことで僕は仏教が好きになったとも言えます。

もともと何もないからこそ自分の生き方を自由につくれる

「本来無一物」の意味を調べると、「人間はもともと何も持っていないので、執着すべきものはなにもない」といった感じで説明されると思います。

しかし、重要なことはこの教えをどう日々の生活に活かしていくかですね。

そこで僕は、この教えを、まずは「人の心の中は本来何も無い。だから、頭の中に浮かぶ判断や感情などといったすべてのことは、確固として存在するのではなく、仮に現れたものにすぎない」と考えます。
人間、心の動きを完全に止めることはできないでしょう。「何も考えるな」などと言っても何か考えるはずです。
しかし、このとき、そうして浮かぶ考えや感情があくまで仮のものだと知っていれば、それらのものを「相手にしない」という選択肢がとれます。また、この世に確固として存在していないものに執着する意味はなくなります。

ただ、ここで誤解してほしくないのは、「本来無一物」という教えは、決して虚無になれ、などということではないと思います。

たしかに、人間はもともと何も持っていない。しかし、かといって「生きる意味はない」などと考えたり、欲望のままに行動するのがよいというわけではないでしょう。

そうではなく、僕は、もともと何も無いからこそ


人は、故意に他人を傷つけたり、自分自身を傷つけたりしない限り、自分が幸せに生きる方法を自由に考え、その生き方を貫いてよいのだ、
と考えます。

というのも、人間の判断自体が仮のものなのですから、本来「正しい生き方」も「間違った生き方」も存在しないのです。
しかしそれは、「何をしてもいい」のではなく、自分で自分なりの「正しい生き方」を決めてよい、また、決めていく必要があることを意味します。
なぜ決める必要があるのかといいますと、お釈迦様が「一切皆苦」と言われているように、普通にしてたら人生の苦しみに負けてしまうと僕は思っています。自分を苦しみから守ってくれる、確固たる軸が必要だと思うのです。
ただし、 絶対的な正解がないのですから、他人が言う「正しい」「間違い」に振り回される必要はなく、ここは自分の直感とか、本心を大事にして自分の軸を作ってよいのです。また、すぐに思いつかなくても、自分の経験が自分なりの正しい生き方を教えてくれることもあるでしょう。
僕はこの考え方をするようになってから、自分なりのルールをしっかりと自分で決められるようになりました。もちろん、自分がどう行動すべきか迷うことはありますが、以前よりは減りました。

自分の軸を作って、それを守るなどと言うと、「執着すべきものは何も無い」という考えに反するのではないかと思われるかもしれませんが、僕は、それが自分の人生によろこびや使命感を与えてくれるものであったり、それによって他人や自分を傷つけないのであれば、何かにこだわりを持つことはまったく問題ないと思います。例えば、自分が大事にしたい宗教(もちろん仏教以外も)への信仰に自分の使命を見出し、それを守り続ける人生。国や郷土を愛し、そのために自分ができることを行う人生。自分のしている仕事に誇りを持ち続ける人生。どれも素晴らしいと思いますよ。
そもそも、「間違った生き方」は存在しませんからね。

現在は、世界中の人と交流できる時代になりました。きっと、様々な価値観の人と出会うでしょう。そんなとき、自分と違う価値観をもつ人を、「正しい」とか「間違っている」と判断することなく、ありのままに受け入れることが必要です。

そして、それを可能にする言葉が、「本来無一物」だと思います。

どうか、全ての人が自分の価値観を貫き、価値観の違いで傷つけあうことがなくなることを願います。
他人を傷つけることも、自分を傷つけることも、いかにナンセンスなことか、一人でも多くの人に知ってほしいですね。


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