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無門関・考察

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無門関の公案の、個人的な考察です。
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2022年4月の記事一覧

無門関第二十七則「不是心佛」

 無門関第二十七則「不是心佛」について、綴ります。  公案の現代語訳は、こちら。  南泉和尚は、十四則でネコちゃんを斬り殺した人です。  後進の教育のためになると思えば、平気で禁忌を犯せる、おっかねぇ禅僧です。自分のイメージアップのために出し惜しみするという発想は彼にはありません。「雄弁さは徳を損なう」などと言われたところで、今更そんなことを気にする人ではないでしょう。  教えを請われれば、勿体ぶらずに、どんどん教える。熱血和尚。  彼の熱い指導が、趙州を育て上げたのかも知

無門関第二十六則「二僧巻簾」

 無門関第二十六則「二僧巻簾」について、綴ります。  公案の現代語訳は、こちら。  昼食前、やってきた二人の僧侶の前で、法眼が簾を指さした。  二人の僧侶が、共に簾を巻き上げた。  そしたら、法眼が「一人はよし、一人はダメ」と言った。  この公案を読んで、まず思い出すのは、十一則の趙州と庵主のエピソードです。  同じ人からの同じ言動に対して、同じように応じたのに、一方を良しとし、一方を良しとしなかった。  いろんな部分が似てます。  しかし、今回のケースは、趙州と庵主の

無門関第二十五則「三座説法」

 無門関第二十五則「三座説法」について、綴ります。  公案の現代語訳は、こちら。  寝ているときに見る夢は、ツッコミどころが満載なのが常ですが。  気がついたら、弥勒のおわす須弥山にいたというのですから、まずはなかなか景気のいい夢です。  初夢の一富士二鷹三茄子なんて目じゃない豪華さ。  禅僧なら、うっきうきだったでしょう。  で、第三座に据えられる。  三座というのが、どういう立ち位置なのか、私にはわかりませんけど、僧侶達のリーダーを首座あるいは第一座というそうですから

無門関第二十四則「離却語言」

 無門関第二十四則「離却語言」について、綴ります。  公案の現代語訳は、こちら。  素晴らしいものは、自分だけじゃなく、相手の中にも、同じように眠っているわけです。  その深度には個人差があると思いますが、眠っていることは確かです。  なので、切掛が与えられれば反応するはずだと、信じて託していい。  そういうことなんだと、理屈ではわかるんですけどね。  例えば、桜の花の美しさを伝えたいと思ったとき。 「桜の花が咲いてたんだけどね。一輪の花は小さくてね、薄い色でね。なのに、

無門関第二十三則「不思善悪」

 無門関第二十三則「不思善悪」について、綴ります。  公案の現代語訳は、こちら。  慧能が、五祖から、六祖として指名され衣鉢を継いだのは、多くの禅僧にとって、衝撃的な出来事だったようです。  慧能は、元々は禅僧ではありません。寺の下働きをしていた人です。  それなのに、五祖による後継者選考会において、筆頭門弟の神秀に、詩作で痛烈カウンターパンチを食らわせてしまい、「慧能の勝ち」と五祖に認められてしまいます。  門前の小僧習わぬ経を読むを地で行くシンデレラストーリー。  慧

無門関第二十二則「迦葉刹竿」

 無門関第二十二則「迦葉刹竿」について、綴ります。  公案の現代語訳は、こちら。  一言で言えということですけども。  タイトルをつけるなら、 「ショートコント」。  あるいは「第六則のあとがき漫画」。  シメに何か一言ということなら、 「だめだこりゃ(いかりや長介)」←ドリフ大爆笑 「いい加減にしろ」←漫才調  て感じでどうでしょうかね。  お釈迦さまに二人ともスパーンとツッコんでもらえれば上手くオチがつくんじゃないですか。  何でもいいんだと思うんですけどね。  

無門関第二十一則「雲門屎橛」

 無門関第二十一則「雲門屎橛」について綴ります。  公案の現代語訳は、こちら。 「仏とは、どのようなものなのでしょうか」シリーズ第二弾。  雲門の答えは、「乾いた棒状の糞である」です。  ショッキングな回答です。  よりによってというチョイス。  そもそも、清潔な現代日本にお住まいのお若い方は、乾いたうんこなんて、目にしたことはありませんでしょう。  そんな方のために、簡単に説明します。  今でこそ、犬を飼おうと思ったらペットショップに行くか、伝手を辿って譲ってもらう

無門関第二十則「大力量人」

 無門関第二十則「大力量人」について、綴ります。  公案の現代語訳は、こちら。 「結句を作れ」と書かれているので、作ります。  流石に漢文は書けないので、韻も何もかも無視して日本語で。 「人間大小 ただ在るが儘」  こんなところでどうでしょうかね。 「大力量人」という語を「悟った人」と訳する訳文が多いんですけど、私はもっと単純に、力のある人とか、才能のある人とか、いわゆる傑物、そういう人達をひっくるめた総称のように感じています。  もちろん「悟った人」というのも当然含

無門関第十九則「平常是道」

 無門関第十九則「平常是道」について、綴ります。  公案の現代語訳は、こちら。  これに関しては、もう、南泉の言葉がすべてのような気がしてます。 「平常心であろう」としているうちは、平常心じゃない。  多分、そういうことでしょ。  ところで、禅でいうところの「平常心」というのは、現在いうところの平常心とは、ちょっと違うみたいですね。  禅における平常心は、まず読み方が「へいじょうしん」ではないらしい。 「びょうじょうしん」と読むそうです。  現在我々が「平常心を保ちなさ

無門関第十八則「洞山三斤」

 無門関第十八則「洞山三斤」について、綴ります。  公案の現代語訳は、こちら。 「麻三斤である」という言葉の意味は、何となくわかります。  三斤の麻布を縫い合わせると、ちょうど衣服一着になり、身に纏うことができる。  三蔵の経典は、身に纏うべき仏法の衣の元となる麻のようなもの。  上手いこと言うね、という感じです。  しかし、洞山のすごさは、勿論このワードチョイスもですが、それと同時に、「一言で突き放した」ことにもあるんだろうという気もしてます。 「あなたにとって、○○

無門関第十七則「国師三喚」

 無門関第十七則「国師三喚」について綴ります。  公案の現代語訳は、こちら。  国師が三回呼び、侍者がそれに三回答えた。  そんなワンシーンです。  これが、わかるようでわからない。  最初に国師が呼んで、侍者がそれに答えた。ここまではわかります。  そのあと、二度目の呼応までの間、具体的に何があったのか。  全く解らない。  何かしら用事を言いつけられ、それに従ったのか。  普通に用事を済ませる。これを三度繰り返した。  これがいちばん理解しやすいケースですが。