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無門関第二十七則「不是心佛」について、綴ります。 公案の現代語訳は、こちら。 南泉和尚は、十四則でネコちゃんを斬り殺した人です。 後進の教育のためになると思えば、平気で禁忌を犯せる、おっかねぇ禅僧です。自分のイメージアップのために出し惜しみするという発想は彼にはありません。「雄弁さは徳を損なう」などと言われたところで、今更そんなことを気にする人ではないでしょう。 教えを請われれば、勿体ぶらずに、どんどん教える。熱血和尚。 彼の熱い指導が、趙州を育て上げたのかも知
無門関第二十六則「二僧巻簾」について、綴ります。 公案の現代語訳は、こちら。 昼食前、やってきた二人の僧侶の前で、法眼が簾を指さした。 二人の僧侶が、共に簾を巻き上げた。 そしたら、法眼が「一人はよし、一人はダメ」と言った。 この公案を読んで、まず思い出すのは、十一則の趙州と庵主のエピソードです。 同じ人からの同じ言動に対して、同じように応じたのに、一方を良しとし、一方を良しとしなかった。 いろんな部分が似てます。 しかし、今回のケースは、趙州と庵主の
無門関第二十五則「三座説法」について、綴ります。 公案の現代語訳は、こちら。 寝ているときに見る夢は、ツッコミどころが満載なのが常ですが。 気がついたら、弥勒のおわす須弥山にいたというのですから、まずはなかなか景気のいい夢です。 初夢の一富士二鷹三茄子なんて目じゃない豪華さ。 禅僧なら、うっきうきだったでしょう。 で、第三座に据えられる。 三座というのが、どういう立ち位置なのか、私にはわかりませんけど、僧侶達のリーダーを首座あるいは第一座というそうですから
無門関第二十四則「離却語言」について、綴ります。 公案の現代語訳は、こちら。 素晴らしいものは、自分だけじゃなく、相手の中にも、同じように眠っているわけです。 その深度には個人差があると思いますが、眠っていることは確かです。 なので、切掛が与えられれば反応するはずだと、信じて託していい。 そういうことなんだと、理屈ではわかるんですけどね。 例えば、桜の花の美しさを伝えたいと思ったとき。 「桜の花が咲いてたんだけどね。一輪の花は小さくてね、薄い色でね。なのに、
無門関第二十三則「不思善悪」について、綴ります。 公案の現代語訳は、こちら。 慧能が、五祖から、六祖として指名され衣鉢を継いだのは、多くの禅僧にとって、衝撃的な出来事だったようです。 慧能は、元々は禅僧ではありません。寺の下働きをしていた人です。 それなのに、五祖による後継者選考会において、筆頭門弟の神秀に、詩作で痛烈カウンターパンチを食らわせてしまい、「慧能の勝ち」と五祖に認められてしまいます。 門前の小僧習わぬ経を読むを地で行くシンデレラストーリー。 慧
無門関第二十二則「迦葉刹竿」について、綴ります。 公案の現代語訳は、こちら。 一言で言えということですけども。 タイトルをつけるなら、 「ショートコント」。 あるいは「第六則のあとがき漫画」。 シメに何か一言ということなら、 「だめだこりゃ(いかりや長介)」←ドリフ大爆笑 「いい加減にしろ」←漫才調 て感じでどうでしょうかね。 お釈迦さまに二人ともスパーンとツッコんでもらえれば上手くオチがつくんじゃないですか。 何でもいいんだと思うんですけどね。
無門関第二十一則「雲門屎橛」について綴ります。 公案の現代語訳は、こちら。 「仏とは、どのようなものなのでしょうか」シリーズ第二弾。 雲門の答えは、「乾いた棒状の糞である」です。 ショッキングな回答です。 よりによってというチョイス。 そもそも、清潔な現代日本にお住まいのお若い方は、乾いたうんこなんて、目にしたことはありませんでしょう。 そんな方のために、簡単に説明します。 今でこそ、犬を飼おうと思ったらペットショップに行くか、伝手を辿って譲ってもらう
無門関第二十則「大力量人」について、綴ります。 公案の現代語訳は、こちら。 「結句を作れ」と書かれているので、作ります。 流石に漢文は書けないので、韻も何もかも無視して日本語で。 「人間大小 ただ在るが儘」 こんなところでどうでしょうかね。 「大力量人」という語を「悟った人」と訳する訳文が多いんですけど、私はもっと単純に、力のある人とか、才能のある人とか、いわゆる傑物、そういう人達をひっくるめた総称のように感じています。 もちろん「悟った人」というのも当然含
無門関第十九則「平常是道」について、綴ります。 公案の現代語訳は、こちら。 これに関しては、もう、南泉の言葉がすべてのような気がしてます。 「平常心であろう」としているうちは、平常心じゃない。 多分、そういうことでしょ。 ところで、禅でいうところの「平常心」というのは、現在いうところの平常心とは、ちょっと違うみたいですね。 禅における平常心は、まず読み方が「へいじょうしん」ではないらしい。 「びょうじょうしん」と読むそうです。 現在我々が「平常心を保ちなさ
無門関第十八則「洞山三斤」について、綴ります。 公案の現代語訳は、こちら。 「麻三斤である」という言葉の意味は、何となくわかります。 三斤の麻布を縫い合わせると、ちょうど衣服一着になり、身に纏うことができる。 三蔵の経典は、身に纏うべき仏法の衣の元となる麻のようなもの。 上手いこと言うね、という感じです。 しかし、洞山のすごさは、勿論このワードチョイスもですが、それと同時に、「一言で突き放した」ことにもあるんだろうという気もしてます。 「あなたにとって、○○
無門関第十七則「国師三喚」について綴ります。 公案の現代語訳は、こちら。 国師が三回呼び、侍者がそれに三回答えた。 そんなワンシーンです。 これが、わかるようでわからない。 最初に国師が呼んで、侍者がそれに答えた。ここまではわかります。 そのあと、二度目の呼応までの間、具体的に何があったのか。 全く解らない。 何かしら用事を言いつけられ、それに従ったのか。 普通に用事を済ませる。これを三度繰り返した。 これがいちばん理解しやすいケースですが。