無門関第二十三則「不思善悪」

 無門関第二十三則「不思善悪」について、綴ります。
 公案の現代語訳は、こちら。

 慧能が、五祖から、六祖として指名され衣鉢を継いだのは、多くの禅僧にとって、衝撃的な出来事だったようです。

 慧能は、元々は禅僧ではありません。寺の下働きをしていた人です。
 それなのに、五祖による後継者選考会において、筆頭門弟の神秀に、詩作で痛烈カウンターパンチを食らわせてしまい、「慧能の勝ち」と五祖に認められてしまいます。
 門前の小僧習わぬ経を読むを地で行くシンデレラストーリー。
 慧能。恐ろしい子…!

 しかし、これ、他の僧侶達は面白くない。
 自分たちが尊敬している神秀さんが衣鉢を継ぐならまだ納得がいくのに、米つき風情が六祖だと? てな感じなんでしょう。
 まあ「そんな考え方しか出来ないから、おまえらはその程度なんだよ」と言ってしまえばそれまでなんですが、それは多分、外野の立場だから言えることでね。
 例えば、派遣の平社員だった人間が、社長からいきなり後継者に指名されたようなもの、とでも考えれば、「他の僧侶の気持ちのほうが解る」という方も大勢いらっしゃるんじゃないでしょうか。

 かくして、六祖継承は、揉めに揉める。
 慧能は、継いだ衣鉢を持ってスタコラとんずらし、五祖の門弟がそれを追うという展開になります。
 そうして、追っ手の一人である明上座、ようやく慧能に追いつきます。

 ここまでが、この公案の前提です。

 慧能は明上座の前の石の上に、衣鉢を投げて寄越します。
 そして言います。
「この衣鉢は、五祖から法を継いだことを五祖から認められた証だよ。
 だから、この衣鉢だけ力ずくで奪っても、私が受け継いだ法まで奪えたことにはならないと思うけど、それでいいんなら、持っていけば?」

 この後の訳し方は、「衣鉢を持ち上げようとしたけれども、重くて持ち上げることが出来なかった」とする訳文がほとんどで、ちょっとファンタジー色を帯びてきます。
 この訳し方も、これはこれで好きなんですけど、私としては、「衣鉢を持ち上げたものの、そのまま持ち帰るのは躊躇われ、一歩も動くことが出来なかった」という読み方のほうが、人間くさくて生々しくてより好きなので、そういう訳し方をしてます。
「衣鉢の真の価値が明上座を立ちすくませた」と解釈してもいいシーンかとは思うのですけど、私は、それだけではないという解釈をしております。
 明上座も、権威に盲従するボンクラ僧侶ではないような印象を、私は受けるんですよね。

 奪い去ることで衣鉢の在り方を変えてしまうことになることへの怖れ。
 それほどのことを「好きにすれば?」とあっさり言ってのける慧能の底知れない大きさへの怖れ。
 つまり、明上座はここでまず「真の悟りに至れば、どんな権威や虚飾にも頼る必要はなくなる」という、慧能の悟りの境地の一端を見せつけられたわけです。
 衣鉢ですら、必要とあらばあっさり手放す。
 無一物とでもいうのですかね。
 こうして、まずは慧能のジャブがクリーンヒット。
 明上座は、立ちすくみます。

 長年修行を続けてきた禅僧である以上、衣鉢は力ずくで奪うものではないことは、解っています。
 そんなことを強行したら、その時点で、慧能に禅僧として負けを認めたことになるということも、きっと解っていたでしょう。
 それでも、このまま手ぶらで帰るわけにはいかない。
 明上座には明上座なりの、考え、感情、立場、しがらみ、その他、いろんなものがあって、それを背負って今、慧能の前に来ているのです。
 そして何より、明上座自身が、衣鉢が象徴する、仏法、悟りというものに、強い憧れを抱いているはずなのです。

 それを継いだとされる慧能が、目の前にいます。

 本当に悟りに至ったというのか。僧侶でもない行者が。
 俄には信じられない。だが、五祖がそういうのなら試してやる。
 見せてもらおう。

 そして明上座は、慧能に挑んだつもりだったのではないかと思うのです。
「私は仏法を求めて来たのです。形ばかりの衣鉢を奪いに来たのではない。
 行者よ。どうかお教え願いたい」
 この言葉は、今回の追跡のことだけを表す言葉ではないのでしょう。

 自分はずっと、真剣に修行をしてきた。
 ぽっと出の行者にどれほどのことがわかるというのか。
 自分たちの上に祖として立つというなら、言ってみろ。
 何も言えないようなら、そのときこそ、真の衣鉢を手放させればいい。
 そんな気持ちだったんじゃないかと思うのです。

 慧能は、明上座のこうした機微や、状況を、おそらく理解しています。
 だから、言ったのです。
 ざっくり意訳すると、多分こんな意味になります。

「『こうあるべき』とか『こうあるべきではない』とか。
 そういうふうに考えることを、全部やめてごらん。
 そうして、心のままに素直になったら、お前さん、どんな感じ?」

 修行を積んだ筆頭弟子が衣鉢を継ぐのが正しい。
 ろくに修行もしてない行者が継ぐのは間違っている。
 慧能に六祖継承を辞退させるのが正しい。
 慧能を六祖と認めるのは間違っている。
 禅僧なら慧能に問答を挑むのが正しい。
 何もせず慧能に降参するのは間違っている。

 そんな理屈を抜きにして、素直にどうしたいか、そこに戻りなよと、慧能は多分言ったのです。

 まさに、平常心です。

 それを聞いて、明上座は、いきなり悟ります。
 汗を吹き出し、涙を流し、体中から体液を流し、乾きまくりの真っ只中。
 これこそが密語密意の一転語だ。それをこの人が与えてくれた。
 悟りに憧れて止まなかった禅僧としての思いが一気にわき上がります。
「素晴らしい一言を頂いた。もっと他にありませんか」
 この境地を忘れたくない。もっと教わりたい。

 そんな明上座に対する慧能の回答が、またすごい。
「今言ったことには、言葉以上の意味は含めてないよ。
 私はあなたに、言葉に隠して何かを『与えた』わけではない。
 だからね、もしあの言葉で何か大きな悟りを得たというのなら、
 それは『元々あなたの中にあったものに気づいた』ということなんだよ」

 これ以上の教えはないと言っていいほどの、素晴らしい言葉です。
 無門が「ただ飲み込むだけとなったライチ」と評するのも納得の、とどめの一撃です。

 かくして明上座は、六祖に師事したいと願い出ます。
 今までずっと解らなかった。やっと解った。
 五祖の元では解らなかった。この人の元でなら、きっと解る。
 そんな思いが止められなかったのでしょう。
 十数年も修行していながら、正式には僧侶ではない人に、弟子にしてくれと頼めるあたり、明上座もなかなかの人物ではあります。

 それに対して、慧能は言います。
「私がそうしたのと同じように、あなたも五祖を師と仰いで学びなさい。
 善悪、いいもの悪いものという考え方をやめてみる。
 大切な気づきは、自分の中にある。
 今日のこのことを忘れなければ、大丈夫だからね」

 良い悪いで判断しない。
 それはすなわち「六祖がいい」「五祖はよくない」という判断を軽々にしない、ということでもあります。
 大切なものは、すでに自分の中に眠っているのですから、五祖や六祖だけに悟れない原因を探そうとばかりしないで、五祖の元で修行しなさい。
 多分、そういうことです。
 実際、慧能は、五祖の説法を仕事の合間に聞きかじりながら大成したんですし、五祖が無能なわけではないですからね。相性はともかくとして。

 しかしまあ、慧能にひかれる気持ちも、解らないではないです。
 偉ぶらないし、出し惜しみしないし、ついさっきまで敵対してた相手にも真摯に対応する。その結果サクッと大悟までさせてしまう。
 六祖の看板に偽りなしといったところでしょうか。

 先人を模倣しても、自分で試行錯誤しても、言葉を尽くしても、それでも本来の面目すなわちありのままの自己の素晴らしさを表現しきることはないのでしょう。
「すごい絵を描いたね!」「すごいキャッチコピーをつけるね!」と褒めたところで、「それは、この対象物がすごいんだよ」ということになる。
「どれだけ言葉を尽くしてみても 伝えられないものがあるだろう」と小田和正が歌ったわけですが、そんな美しさは何も、恋をした相手の中だけに眠ってるわけじゃないです。
 ちゃんとみんな自分の中に持っている。

 そんな、素晴らしい自分。その見つけ方を教えてくれる教え。
 それは、どれだけ世が移り変わっても、いつまでもそこに変わらずあり続けるでしょう。

 とまあ、無門は禅僧だから、「仏法」を引き合いに出してそんなふうに言うのでしょうが、これは、別に仏の教えでなくてもいいんだと思います。
 その人それぞれの何か。何でもいいんだと思うんです。

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