無門関第二十一則「雲門屎橛」

 無門関第二十一則「雲門屎橛」について綴ります。
 公案の現代語訳は、こちら。

「仏とは、どのようなものなのでしょうか」シリーズ第二弾。
 雲門の答えは、「乾いた棒状の糞である」です。

 ショッキングな回答です。
 よりによってというチョイス。

 そもそも、清潔な現代日本にお住まいのお若い方は、乾いたうんこなんて、目にしたことはありませんでしょう。
 そんな方のために、簡単に説明します。

 今でこそ、犬を飼おうと思ったらペットショップに行くか、伝手を辿って譲ってもらうかしないといけませんけど、昭和末期くらいまでは、野良を拾ってきて飼うのが普通でした。
 保健所の人が町中見回って野良犬を回収してはいましたから、その数は減りつつありましたけど、飼えなくなった犬を、こっそり捨てるのも当時はよくある話でしたし。

 そういうわけで、その頃は、道端に、普通に犬のうんこが転がってたんです。今は、野良犬はほぼ皆無となった上「散歩中の犬のフンは飼い主が持ち帰るのがマナー」という考え方が浸透していますから、ほぼ見かけなくなりましたけどね。 

 でね。犬のフンってね、出たすぐは、色も茶色で臭いもきついです。
 これが、日数が経って乾いてきますと、棒状にカチカチに固ります。
 しかし、変化はそれだけじゃないです。
 色が真っ白になるんですよ。
 臭いもほとんどしなくなります。
 実際に見たことがない人は、ちょっと想像できないんじゃないかな。

「棒状の糞である」ではなく、わざわざ「『乾いた』棒状の糞である」と言ったということは、多分ですけど、こういう真っ白いやつを、雲門は想定してたんだと思うのですよ。
 茶色のくさいやつじゃなくて。

 元は生き物の体から出てきたもの。
 乾いた後は、白い。臭くもない。
「仏とは」と問われて雲門が引き合いに出したのも、なんとなく、解るような気が、してきませんか?
 きませんかね…。

 で、無門によると、雲門は、まあ随分と貧しい暮らしぶりだったらしい。
 食事は粗末だし、仕事は忙しいし、手紙や文書をしたためる暇もない。
「窮乏を助けてもらうための手紙すら送れなかった」というような意味でしょうか?
 そんな状況でありながら、雲門は雲門宗の開祖となります。
 人望があったんでしょうね。
 雲門宗は以後200年ほど続いたそうですから、その教えもしっかりしたものだったのでしょう。
 それでも「乾いた糞で宗派を支えたんか」「仏法の盛衰を見る思いだなあ」と無門が揶揄したのは、ひとつは、無門が生きた宋代には雲門宗はほぼ絶えてしまっていたという状況のためもあったでしょう。

 要するに、雲門は、「仏僧となって出世してやる」というような欲にギラついた生き方はしなかった、ということだと思うのです。

 仏は、雲門には、俗な現世利益は、まったく与えなかったわけです。
 雲門にとって、仏とは、物質的な意味でダイレクトに救ってくれるものではなく、わかりやすく役に立つものですらなく、もっと違うものだったということでしょう。

 きたないものでも、風にさらされる時間を送れば、真っ白く臭いのないものになる。
 何かを得るためではなく、すがるでもなく、ただそうあろうとした。
 そういうことじゃないかと思います。
 そんなふうに考えれば、それほど酷い内容の回答でもないのでしょう。

 それでも洞山が「麻三斤である」と答えたのに比べると、悪い意味でインパクトがでかすぎる回答なので、いろいろ誤解されちゃうのも無理はないとも思うんですが、「仏をうんことか言うなんて!」という衝撃でうっかり眼をつぶると、その隙に、いろんなことを見落とすぞと、おそらく無門は頌で言ってるんでしょうね。

 仏道をひたすら邁進してるお坊さんが言ったことなんですから、仏をバカにしての答えじゃないだろうと考えてみることはできるわけですし、まずはそのまま受け止めて考えればいいのにと思うんですけどね。
「乾いたもの」っつってんのに、茶色のほかほかしたやつで頭をいっぱいにして拒否反応を示したり、しまいには「いや、うんこと言ったんじゃなくて、お尻をふくヘラだと言ったんだよきっと」なんて言って丸く収めていいことしたつもりの人なんかが出てきたりして、それを「ああきっとそうだね」なんて追随する人も出たりして、実際随分長いこと、しっちゃかめっちゃかな反応をされてきたエピソードのようなんです。
「瞬きしたら見落とすぞ」って、しっかりクギを刺されてるのに。

 とか好き放題言いながら、盛大に見落としているのが私の方だったらどうしよう。

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