無門関第二十則「大力量人」

 無門関第二十則「大力量人」について、綴ります。
 公案の現代語訳は、こちら。

「結句を作れ」と書かれているので、作ります。
 流石に漢文は書けないので、韻も何もかも無視して日本語で。

「人間大小 ただ在るが儘」

 こんなところでどうでしょうかね。


「大力量人」という語を「悟った人」と訳する訳文が多いんですけど、私はもっと単純に、力のある人とか、才能のある人とか、いわゆる傑物、そういう人達をひっくるめた総称のように感じています。
 もちろん「悟った人」というのも当然含まれるとは思います。

 で、「大きな力量の人は、どうして足をもたげて立ち上がらないのか」「どうして口数が少なくなるのか」ということなんですが。
 この「立ち上がらない」を「座禅をし続けている」と解釈すると、第九則の大通智勝を思い出すんですが、今回は多分あれとは少し違う話です。
 どちらかというと「どうしてフットワーク軽く動かないのか」みたいな感じのニュアンスだと思います。

 なぜ、立ち上がらず、口数が少ないのか。それは。
「その必要がないから」
「そうしない方がいい場合があるから」
 この2つが、理由なんじゃないかと、私は感じてます。

 人って、すごい人の影響を、とても受けやすいんです。
 すごい人の言葉は聞きたがるし、すごい人のすることは真似したがる。
 みんなが、すごい人の言動を注意深く見るんです。

 だから、すごい人は、もうわざわざ自分から、みんなに対して働きかける必要がなくなっていく。
 自分からそうしなくても、向こうが知ろう解ろうとしてくれるから。
 まずこれがひとつ。
 ではもう一つは。

 すごい人が、誰かや何かに対して積極的に働きかけると、ものすごく大きな影響が出るんです。
 すごい人が「こうしたほうがいいんじゃない?」「それはやめたほうがいいんじゃない?」などと助言したり、実際に動いたりするとき、すごい人が言ったりしたりすることなので、それは大きな成果をもたらします。
 もしかしたら、普通の人が考えたり行ったりするより、はるかに大きな成果が。
 で、それはいいことなのかというと、いい面もあれば良くない面もあるんじゃないかと、思うのです。

 国師に手厚く指導されている弟子がなかなか悟れない、みたいな話が十七則にありましたけど、要は、すごい人が力を貸すと、そのやり方と程度によっては、相手のためにならない場合があるんですよ多分。
 自分が動けば簡単に事が運ぶのにと思っても、自分の言うとおりにすれば上手く行くのにと思っても、軽々しくそうしてしまうと、その相手をダメにしてしまうことがある。
 それが解ってしまうと、よほどのことがない限り積極的には動かなくなるだろうし、口も挟まなくなっていくんじゃないでしょうかね。

 歩きながら、見下ろすそこには、ちっぽけな生き物がいるかもしれない。
 自分に比べたらあまりにも非力に見えるかもしれなくても、そこには、ちっぽけな生き物なりのだいじな世界がある。
 そしてそれは、やっぱり、尊重されるべきものなのだろうと思うのです。

 大力量の人も、小力量の人も、それぞれひたむきに生きる。
 必要なときは、力を貸し合う。
 ただ、それをあてにしきって生きるのではなく、基本はあくまでもそれぞれが主体的に生きる。
 それが肝要なんでしょうね。

 だから、たとえ「どうして力を貸してくれないんだ」となじられても、棒でぶっ叩かれても、自分が手を貸すことが相手のためにならないと思えば、断る覚悟も必要なのでしょう。
 親戚や知人から「金貸してくれ」と言われたとき、貸すべき場合と、貸してはならない場合があるでしょう。そういうことなんじゃないでしょうか。

 そういうわけで、「人間大小、ただ在るが儘」。
 もっと気の利いたフレーズがありそうな気もしますが、文才がない私にはこれが限界です。

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