無門関第十七則「国師三喚」
無門関第十七則「国師三喚」について綴ります。
公案の現代語訳は、こちら。
国師が三回呼び、侍者がそれに三回答えた。
そんなワンシーンです。
これが、わかるようでわからない。
最初に国師が呼んで、侍者がそれに答えた。ここまではわかります。
そのあと、二度目の呼応までの間、具体的に何があったのか。
全く解らない。
何かしら用事を言いつけられ、それに従ったのか。
普通に用事を済ませる。これを三度繰り返した。
これがいちばん理解しやすいケースですが。
そうではなく「何でもない」とでも言われたか。
ちょっと理解が難しくなります。
呼んどいて何でもないって何。じゃ何故呼ぶ。
あるいは「何でもない」とすら言わず、「おい」「はい」「おい」「はい」「おい」「はい」とやったか。
やはり理解が難しくなります。
「和尚さま耳が遠くなっちゃったの?」などと訊いたらかんかんに怒られるんでしょうね。
それとも、「おーい」「はぁーい」と三度連続でやったか。
これはないでしょう。これだったらちょっとヤバい。
侍者よ、さっさとすっ飛んで行けや。呼ばれてるのに返事だけして後は無視とはいい度胸だ。
いずれにしろ、その結果、国師がこんなことを言います。
「私の教え方が悪かったんだと思ってたが、そうじゃない。お前の方に問題がある」
国師は、この侍者が「鐘の音を聞いて袈裟を着る」ような動き方をしていると感じたのでしょう。
おいと呼ばれるまで、何も気づかないようではいかん。
もっと身の回りのひとつひとつに心を配って主体的に動け。
そういう気持ちが、この言葉になった。
一理あります。
しかし、この侍者が、本当にまるっきり見込みのないダメ僧かというと、この話だけではちょっと解らないでしょう。
細々全て言われなくても、一を聞いて十を知る、そんな働きが出来れば、それはそれで素晴らしいと思います。
けれど、「決まり切ったことなど、この世に何一つない」というのが禅の真髄なら、たとえ「きっと師はこれを言いつけるつもりだろう」と思っても、本当にそうなのかは、師の言葉を聞いてみるまではわからないことになります。
ならばたとえ「気が利かない奴だな」と思われたとしても、まずは「はい、何ですか?」と敢えて聞いてみるのも、侍者としてのひとつの在り方だと、言えなくもない。
侍者としてなら、ですよ。
「侍者は和光を吐き出した」と無門が評したのは、この辺りのことかと感じています。
で、どうしてこういう事態になるかというと、結局のところ、「侍者が侍者のままでいいと思っている」というところに原因があるのではないかという気がしてます。
中国における国師とは、通常、皇帝に禅の教えを施した高僧に贈られる諡号だそうなので、言ってみれば、国でいちばんえらい僧侶です。
そんなすごい僧侶の弟子となり、侍者として、身の回りのお世話をできる。かなり恵まれた環境のように思えます。
この侍者は、この環境に、満足しきっているんじゃないかという気がするんですよね。
国師は多分弟子を早く一人前にしてやりたくて、いろいろ知恵を絞り心を配り教えようとしているのでしょうが、当の弟子が「いつまでも師のおそばで、教えを受けながらお仕えし続けたい」と思っているなら、多分その教えは弟子には響きません。
互いに望んでいるものが、ズレている感じがします。
侍者にハングリー精神が足りない、とでもいうのでしょうかね。
中国は特に昔から「鶏口となるも牛後となるなかれ」という価値観が根強い国ですから、いつまでもすごい人の下で仕えたいという弟子の発想や、それを突き放せない師匠の甘さを、あまり良しとしないのでしょう。
世の乱れが治まると、才知に長けた者が貴ばれる。実際このような流れで、国師は皇帝の師の位置までのぼりつめたのでしょう。
しかし、国が栄え、家が富み始めると、子がその豊かさに甘え始める。
弟子が、弟子としての環境に満足しきってしまうように。
一門を支えることと、一人一人を支えること。
同じように思えても、そのやり方は必ずしも同じではないのかもしれません。
それを解らず、同じように手厚く保護しようとするのは、弟子を甘やかしてしまうことに繋がり、弟子のためにならず、罪悪ですらある。
そんなことが書かれているような気がしています。
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