無門関第二十五則「三座説法」

 無門関第二十五則「三座説法」について、綴ります。
 公案の現代語訳は、こちら。

 寝ているときに見る夢は、ツッコミどころが満載なのが常ですが。
 気がついたら、弥勒のおわす須弥山にいたというのですから、まずはなかなか景気のいい夢です。
 初夢の一富士二鷹三茄子なんて目じゃない豪華さ。
 禅僧なら、うっきうきだったでしょう。

 で、第三座に据えられる。
 三座というのが、どういう立ち位置なのか、私にはわかりませんけど、僧侶達のリーダーを首座あるいは第一座というそうですから、そこから数えて三番目、とでも思えばいいんでしょうか。
 そこそこのポジションのようです。

 そして、進行役と思しき誰かがいきなり「それでは今日の説法は、第三座でーす。どうぞー」とぶちかまします。
 わあーと沸き立つ一同。無茶振りもいいところです。
 須弥山にもザキヤマがいるんですね。
 どうする仰山。

 さあ、仰山は、どうしたと思う?
 これが、無門のクエスチョンです。
 しらんがな。夢の話でしょ。

 そんなことより先に「説法するの、弥勒じゃないのかよ」と、ツッコみたくなるじゃないですか。
 弥勒を差し置いて、仰山が説法するの?
 まあ、夢ってのは、そういうものですけどね。 

 でも、よく考えたらこのツッコミ、現実世界に対して禅僧が普段言ってることと、そっくりです。
「すぐそこに、目の前に真理があるのに、わざわざ説明が居るの?」
「説明しようとすればするほど、ズレていくのに?」

 この世は、神様が作った夢のようなものなのでしょうか。

 何にせよ、やれと言われて、やらずに逃げちゃ、ちと芸がない。
 稽古不足を幕は待たない。いつでも初舞台なのは恋だけとは限りません。
 しかし。

 弥勒の目の前で、禅僧とはいえ人間が。
「摩訶衍大乗の仏法は、四句百非のはるーか彼方。
 さあ聞いていけ、聞いていけ」
 ギャグかな?

 夜店風景という落語があるんですがね。
「『電灯がなくても明るくなる法』『釜がなくても飯を炊く法』『泳げなくても溺れぬ法』なんていうありがたい教えがたくさん書いてある本だよ」という触れ込みの本を買ったら、そこには、「電灯がなくても明るくなる法。――夜明けを待つべし」なんて書いてある。
 やりやがったなあの野郎! っていう、楽しい噺です。
 元は上方落語ですけど、談志は蟇の油の枕代わりによく演ってました。

 だからね、そんな感じでね。
「大乗の仏法はですな」などとハードル上げちゃったんなら、そこから先はもう、何やってもいいんじゃねぇかなって気もするんですよね。
 そもそも弥勒に比べりゃ、完璧な人間なんて居やしないんですから、やれることを精一杯やればいいじゃないですか。
 それで「そらそうだ。夜明けを待てばいいんだよ。…深い」とか思ってもらえたら儲けものでしょ。
 弥勒のような完璧さが求められているのなら、最初から弥勒が説法しますよ。多分。

 成功と失敗を分けるものは何なのか。
 失敗もまたひとつの成果たりうる場合は多々あります。
 弥勒が傍で黙って見守ってくれるうちは、怖れずやりきっていいんじゃないでしょうか。

「言葉も理屈も超えたもの。さあ聞いていけ、聞いていけ」とぶち上げちゃったんでしょ。
 だったら例えば「槌を三回叩いてみる」とかどうでしょう。
 カーン。 カーン。 カーン。
「冗談言っちゃいけねぇ」と笑ってくれるか、「深い」と唸ってくれるかは、聴衆にお任せ。

「たとえ不格好な出来の、説法と言えないものでも、
 聞き手がそこから何かを得てくれたら、立派な説法」
 そういうことも、あるんじゃないですかね。

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