無門関第十九則「平常是道」

 無門関第十九則「平常是道」について、綴ります。
 公案の現代語訳は、こちら。

 これに関しては、もう、南泉の言葉がすべてのような気がしてます。

「平常心であろう」としているうちは、平常心じゃない。
 多分、そういうことでしょ。

 ところで、禅でいうところの「平常心」というのは、現在いうところの平常心とは、ちょっと違うみたいですね。
 禅における平常心は、まず読み方が「へいじょうしん」ではないらしい。
「びょうじょうしん」と読むそうです。
 現在我々が「平常心を保ちなさい」と言われると、大抵「いついかなるときも、心を波立たせず、穏やかに保ちなさい」と言われたのだと解釈するでしょう。
 しかし、禅における平常心は、必ずしもそうじゃない。

 平常心(びょうじょうしん)とは。
「何事にも囚われない、素直な心」というような意味なのだそうです。

 つまり、嬉しいときは嬉しさを感じ、悲しいときは悲しさを感じる。
 無理をせず素直な心持ちでいること。
 これが肝要だということのようです。

 なあんだそうかと思いましたか。
 一見「努めて平静を保つ」ことより、簡単そうに思えます。
 しかし、よく考えたら多分これが案外難しい。

 心に生じた感情は、否定せずそのまま感じていい。
 しかし「何事にも囚われてはいけない」のですから、その感情をいつまでもひきずっていていいということではないと思うんですよ。
 どんな心もありのままに生じさせ、そして、どんな心も、ほどほどの頃合いで手放し、フラットな状態に戻していく。
 多分これが、「平常心(びょうじょうしん)」です。

 これ、実際にやろうとしたら、相当難しいと思います。

 例えば、とっても魅力的な異性が目の前に現れたとします。
 この状況における「平常心(へいじょうしん)」とは、「異性に全く心を動かされず平然としている」という精神状態を言うのでしょう。
 対して「平常心(びょうじょうしん)」とは。
「まず『ああ素敵な人だなあ』と心から思い、そしてその次の瞬間には、その感情をすっぱり手放す」という精神状態のことを、多分言います。

 めちゃめちゃ難しいと思います。
 最初から押さえつけて我慢する方が簡単だと思う人も少なくないんじゃないでしょうか。

 それを踏まえて。
「平常心であろう」としているうちは、多分平常心ではないんでしょうね。
 意識しているうちは、やっぱり少し不自然さが混ざる。
 最初は、後から気づくんじゃないですか。
「あ。今、私、平常心だったかも」って。
 そして、だんだん、平常心でいられる時が増えてきて、「今平常心だった」と意識する間隔が伸びてきて、ついには「私、今、平常心だ」と思うことがなくなる。
 そのとき、真に平常心を会得したと言えるんでしょう。

 花の美しさと香りを愛で、風の心地よさを感じ、月にしみじみとした趣を感じ、雪の白さと冷たさに静かな美をを感じる。
 そして、次の何かに意識を向けるときには、その感情を手放す。
 そのように暮らして行けたら、きっと幸せな日々を過ごせる。
 そういうことが、書かれているのでしょう。

 すごく、難しいと思いますけど。

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