無門関第二十四則「離却語言」
無門関第二十四則「離却語言」について、綴ります。
公案の現代語訳は、こちら。
素晴らしいものは、自分だけじゃなく、相手の中にも、同じように眠っているわけです。
その深度には個人差があると思いますが、眠っていることは確かです。
なので、切掛が与えられれば反応するはずだと、信じて託していい。
そういうことなんだと、理屈ではわかるんですけどね。
例えば、桜の花の美しさを伝えたいと思ったとき。
「桜の花が咲いてたんだけどね。一輪の花は小さくてね、薄い色でね。なのに、集まるとほんのりと桃色に色づいてね、とても華やかな印象になってね。そこに強い風が吹い(略)」
とやるよりも、
「風に舞う桜」
とだけ言う方が、ずっと伝わるということがあるでしょう。
前のめりで早口でまくし立てても、全然伝わらないどころか、かえって、「こいつ必死すぎてバカみたいだなあ」とか思われたりする。
そういうことは、ままあるわけですね。
ああー、耳が痛ぇ。
で、このとき、誰かの言葉を引用して受け売りを口にするよりは、自分の言葉で語る方が、より伝わりやすいのでしょう。
例えばの話、恋人から愛を告白される場合、シェークスピアの一節を朗々と語られるより、たどたどしくても必死な顔で「愛してる」と言われた方が、多分ぐっとくるじゃないですか。
どれだけ言葉を尽くそうとも、世界の真実に、人の思いに、きっといつも少しだけ届かない。
たとえ嘘と思われるかも知れなくても、誤解されてしまうかも知れなくても、陳腐だと笑われるかも知れなくても、その怖れをもどかしく受け止めながら、それでも言葉に託して伝えようとする覚悟が、ときに強く人の心を打つのだろうと思います。
「本質からズレている」と誹られるかも知れなくても、本質の一端であると信じられるものは、怖れを乗り越えて伝える。
それをくじけずに繰り返せば、いつか本質の全体像に近づけるのかも知れない。
そういうわけで、言葉を超えた一句。
語るか。詠むか。描くか。刻むか。舞うか。黙するか。
どれがダメってことはないんでしょう。
ただ、「さあ言ってみろ」「格好良く言う必要はない」の直後に「あんまり喋るとバカがバレるぞ」と言い足す、って、どうなのよ。
こんなこと言われたら、大抵は表現するの怖くなると思うんですけど。
ただ、よく考えてみれば、「お前は、喋るとバカだと思われるよ」と言われて黙るのは、「誰かにバカだと思われたくないから」ですよね、多分。
でも、賢い人がそのまま賢く生きる姿はスマートで惚れ惚れするし、バカがあっけらかんとバカのまま明るく生きる姿も、それはそれで楽しそうに見えるんですが、バカが付け焼き刃で賢い人の擬態をしようとするのはちょっと格好悪い。
というわけで、この公案は、うっと言葉に詰まった時点で、最終的に「人にバカと思われたくないというちっぽけな自分」をまざまざと見せつけられる仕組みにもなっている。
そんな気がします。自分で自分を点検する訓練。
結局、この公案をいろいろ考えながら、最後にほんとにひとつ詠んでみたという人は、全然いないみたいなんですけどね。
「蟻が掘る巣に葉桜のそよぎけり」
バカでいいもん。お目汚し失礼。
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