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”白痴”と呼ばれていた自分

アメリカを出て、全く興味のなかった中国に引っ越したのは色々と疲れていたからでしょう。でなければ、それまでに溜まりに溜まった荷物を処分して、飼っていたチワワ2匹を前のボーイフレンドに泣く泣く預け、車を売って、出て行く理由はありませんでした。博士課程に進み2年経った頃でしたが、もう本を読むのも論文を書くのも、人と話すのも嫌で嫌で、今から思えばまさしくburn out (燃え尽き)だったのだと思います。環境を変えるのはその時の自分にとっては唯一の手段だと一杯一杯の頭で決断したのでしょう。

直接的な理由はそのときに付き合っていたアメリカ人の彼が中国語を勉強していて、向こうに1年間行きたいから一緒に行かないか、と誘われたことです。1年ならいい休みになるかも、と気軽に行きましたが結局は5年半も住んでしまいました。正直に言えば、そこが好きだったから長く住んだ訳ではないのですが、その話はまた今度。

英語を教える外国人教師として郊外の中規模な経済大学に派遣されたのですが、その大学では短期間で逃げ出した外国人教師が多かったらしく、本当にできる限りの準備をして受け入れてくれました。その当時(ちょうど20年前です)では大都市の大学で教える外国人はひと月に350ドルほどもらっていたところ、私は450ドル、しかも湯船と衛星テレビのついた宿舎(後で聞いたところ、私が日本人だったため風呂が好きだろう、とわざわざ工事してくれたのだそうです。衛星テレビは検閲で3チャンネルしか映りませんでした笑)、それに街に出る用に車とドライバーまで用意してくれていたのです。

そこまで頑張って私を迎え入れてくれた学校。私は“いい気分転換になる、一年経ったらアメリカに帰る”と気楽に出向いたのに。

同時期に赴任したアメリカ人の男性はちょっとだけ中国語ができました。書けはしませんでしたが、日常会話は十分だったように思います。
私と言えば、ニーハオの発音もままならないほどで、誰か英語を喋れる人がいるだろう、と何の下準備もせず来た横着者でした。同僚がちょっと喋れるのをいいことに彼にくっついていれば困ることはなかろう、とまで思っていました。
大学は私を喜ばせようと出来る努力はしてくれていたのに、私は基本的な会話も出来ない無礼者でした。

最初の週末に同僚とブラブラとメインストリートに出たのですが、郊外の小さな街ですので外国人が珍しく、商店や露店の人が盛んに声をかけます。
この時点での“外国人”は私の同僚一人、です。私は中国人のような顔ですので、現地の人は同胞だと思っていますし、白人の同僚の通訳だと踏んでいたようです。
しきりにあれを見ていけ、これを買えと声をかけられるので二人でリンゴを買おうと立ち止まると、あっと言う間にたくさんの人に囲まれました。
四方八方から私の腕を掴み、何やら大きな声でまくし立てるのですが、ニーハオも言えない人間ですので、ニコニコしながら突っ立っているだけです。
同僚曰く、皆さん私に自分の言ってることを通訳しろと言っていたらしいですが、そんなん言われても知らんですよ、中国人じゃないですから。

訝しげな皆さんを後にすると同僚が、シマもちょっとだけ中国語を勉強したらいいよね、と優しく言ってくれました。それでも私は いいよ、短期間だし仕事もあるし、興味無いし、と何もしませんでした。

それから毎週末二人で買い物に出かけたりしていたのですが、その度に通訳しろしろの皆さんが寄ってきて、その度にニコニコとただ突っ立っているだけの私でした。

そして何度目かの週末に生徒が三人ついてきて、電気屋さんに寄った時のこと。
生徒はもちろん中国人ですから店主やら周りの興味津々の皆さんと話し、私が買いたかった留守電付きの電話の値段交渉をしてくれています。
当時はその街には留守電はなく、遠くの都市から取り寄せるが1500元はする、と言うことを通訳してくれ、それにニコニコしながら “いいよ”と言ったときに周りの人がざわめきます。

1500元は大金です。200ドル以上だったと思いますがその当時の現地サラリーマンの月収よりも多い額です。うちの大学の教授の月収がそれくらいの額でした。
露店や商店の店員の稼ぎはその半分、3分の1以下だったでしょう。

生徒に向かってびっくりした様子で何やらザワザワと詰め寄る様子が奇妙だったので、店を出てから聞いてみました。何をあんなにザワザワしていたの?

一人が本当に申し訳ないような神妙な顔で、

先生がそんな大金を持っているのはおかしい、と言われました。

と言うので、なんで?と聞き返すと

この“白痴”は何者なのか、と聞かれました。彼らは先生が中国人ではないと知らないですから、先生だとも知らないですから、悪気はないのですが、先生はまともに話しもできない口が聞けない白痴だと思っていたようです。

と答え、唖然としました。
私の街でのあだ名は 白痴 だった!この人たちは私を口のきけないバカだと思っていた!

もう衝撃で怒りが湧くやら、恥ずかしいやら、可笑しいやら、だったのですが生徒たちの本当にすまなそうな顔を見て涙が出てきました。

その通りじゃないか。私は本当にバカだった。奢った高慢なバカだった。ここで一生懸命に生きる人たちとコミュニケーションを取ろうともせず、それでも別にいいや、と無視していたバカだった。彼らは間違っていなかった。

小さい頃から賢い、賢い、と言われ続けた私。
留学するために努力して、留学先でも必死で勉強した私。
博士号に進んで、あまり賢くない自分が見えた私。

白痴と呼ばれたくない一心でそこから猛勉強し、徐々に中国語も上達し、その半年後には同僚との会話はほぼ中国語で出来るようにまでなりました。
そこまで出来たのもあの時の衝撃が心に響いたからです。自分は色々な意味で賢い人間ではなかったと思い知らされたからです。コミュニケーションを取ろうとする努力は最低限の礼儀だったと思い知らされたからです。

出来るようになったからこそ、ここでもうちょっと頑張ってみようかな、と滞在を延ばすのですが、残念なことに言葉がわかるからこその葛藤も出てきます。
いい事、悪い事、たくさんありすぎた中国での生活でしたが、その時学んだ中国語が後々あらゆる場所で役に立つので、人生とは上手く辻褄が合うものだなぁと一人納得しています。白痴呼ばわりされた甲斐があったという事です。

行きたくて行ったわけではなかった、そんな土地で目を大きく開く機会を持たされて私はラッキーでした。バカだけれど、ラッキーでした。

シマフィー


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