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メトロポリタン美術館で血の気が引いた

15世紀フラアンジェリコの描いた"キリストの磔"・・・・これは課題に出した絵画だ。私の教室にあるフラアンジェリコの"悲劇受胎"のレプリカとこの磔の絵を比べる課題だ。
生徒たちは食い入るように見ただろう。
近くに寄って見ただろう。

その磔の絵に穴があいている。ちょうどペン先ほどの大きさの穴が、キリストの膝横にあいている。下に居る男はそれを見上げているようだ。私はそれを見た時に自分の顔からサーっと血の気が引くのがわかった。

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バスに何時間も揺られてニューヨークシティにあるメトロポリタン美術館に遠足に行ったことが3回ほどある。とにかく遠いので朝早く出て遅くに戻る強行軍で、ゆっくり美術品を見て回る時間はない。
1時間半か2時間の間に生徒たちはペアや班になって巨大なフロアを歩き回って課題をこなさないといけないし、急いで回ると美術館のいい雰囲気も、小さなメモも、目的以外の絵画なども逃してしまいあまりいい体験はできないから私はこの遠足があまり好きではない。最後に行ったのはもう4年前だ。

それでも歴史の授業には美術・芸術を実際に見てその大きさや絵の具の輝きやテーマごとに展示された並びなどを見るのは重要なので遠くの美術館まで生徒を連れて行くことがある。授業のテーマに沿った課題をプリントして配布し、それに答えるような形で生徒たちは絵画から絵画を辿って行く。

私が担当しているのは中世からルネッサンスにかけてのヨーロッパ史なのでメトロポリタンでは2階フロアにあるその時代の絵画をメインに回る。生徒は9年生(日本の中学3年生)だ。

館内ではペンの使用は許可されていないので短い鉛筆を配り、プリントを小さく折りたたんで生徒たちを送り出す。写真を撮るのは許可されているフロアだけれど、全員が携帯を持って行くと怠けて何もしない子が出るのでリーダーだけに持たせ、後は全部没収する。飲食禁止なので飴もガムもバスの中におき、大きい荷物は邪魔になるし展示品を倒すこともあるのでロッカーに預ける。
全生徒に集合時間を伝え、引率の何人かの先生がフロアをぐるぐると見回る。

そんな風に用意周到に始まった遠足で、生徒のあとをゆっくりついて回る私の目に飛び込んできた光景が背中をゾクッとさせた。

下を向きながら歩きメモを取る生徒が、展示物の周りに立ててあるポールを倒し、私が走り出す間も無くフロア一帯に ガシャーーーン と大きな音を立てた。
学芸員が険しい顔で飛んできたが幸い誰にも怪我はなく、展示物にも当たらず大丈夫だった。
小さなメガネをかけた黒づくめのロッテンマイヤーさんのような学芸員に平謝りし、生徒に怖い顔で ちゃんと前を見ろ と凄み、課題を続けるよう追いやる。

そしてもうすぐ集合時間だというその時、一枚の宗教画を横切った時に、血の気が引いた。

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(冒頭とこの写真はその時私が撮ったものです)

顔と背中がサーっと冷たくなったと同時に耳がほてり心臓がドキドキしてきた。

私の生徒が鉛筆で穴を開けたのではないか?
事故にしろ故意にしろこれは究極にやばい。

頭の中をぐるぐるしたのはこれが15世紀の絵画で、かのフラアンジェリコの作品で、世界に一点しかないものだという事実ばかりでそれ以上の思考が止まる。

周りには知る顔は誰もおらず閑散としていたがゆっくり歩き出して学芸員を探した。目の前の壁を曲がると先ほどのロッテンマイヤーがこっちを見ている。

あのぅ、本当に言いにくいのですが、こちらに来て見ていただきたいものがあります

腰を低くして丁寧にお願いした。多分眉毛は八の字に下がり恐ろしさのあまりもじもじしていた。あまり詳しくは言いたくなかった。

例の絵画へ案内すると彼女はギロリとこちらを見てパッと破顔した。

この穴はね、鉛筆を持って倒れ込んだ子供が昨日開けたのよ。ブッスリ行っちゃったのよ。

ケラケラと笑う彼女を見て私は崩れ落ちんばかりに心底ホッとした。

私の生徒じゃなかった!(神様仏様ありがとう!)

明日から外して修復をするから写真撮っとけば?と言われ、遠慮なく撮った。

3分足らずの出来事だったと思うが私は彼女を穴まで案内する間に、自分が監督不行き届きで職を追われ、修復費用で借金をし、新聞に載り、末代まで恥を晒さなければいけないのではないかと怯えていた。

これは綺麗に直るんでしょうか?

そう聞く私に、ロッテンマイヤーは

直るでしょう、ある程度は。と言った。

もうあいてしまったものは仕方ない。何世紀のものだろうが価値があろうがなかろうが、形あるものが壊れるのは避けられない、と美しく冷静な顔がそう言っているようだった。


メトロポリタン美術館にあるこのページを見るとその真相がわかります。

(よーく見てね)


シマフィー

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